絵本のちから 過本の可能性
特別編

「絵本フォーラム」35号・2004.07.10
絵本・わたしの旅立ち・1
中川 正文(作家・大阪国際児童文学館館長)
中川正文(なかがわ・まさふみ)

1921年奈良県生まれ。龍谷大学卒。戦前10代から創作をはじめる。戦後1946年、児童文学者協会の創立会員。1949年、京都女子大につとめ、1986年定年退職、現在名誉教授(児童文化学)。伊藤整や遠藤周作と第1回A・A作家会議日本代表。絵本「ごろはちだいみょうじん」など著書100冊を越える。京都府文化賞など受賞も多い。京都府宇治市在住。

絵本とは、子どもに「与える」「下ろす」もの?

 いま勤めている大阪国際児童文学館は、千里の万博公園のなかにある。岡本太郎のやや奇矯な太陽の塔を中心に、ひろがる公園は、30数年前の万国博の騒々しさが、まるでウソのように、美しい自然の林のなかで静かに息づいている。
 けれども誰もが言うように、こんなステキな環境は、まれにみる得難いものではあるものの交通の便に恵まれず、世間から孤立している印象が強い。
 だから児童文学や絵本に関心があり、文学館の機能を必要とする人びとや遠方の居住者はホームページにアクセスしたり、電話で相談を迫ってくる。とりわけ電話は生の声でキャッチボールができ、その場で解決できることも多いので、だんだん利用者が増えてくる。
 相談には、それぞれ専門家がそれぞれ対応することになるが、ときには私にまわってくることがある。私には専ら絵本や絵本と子どもの発達に関連するものが主流を占めているが、普通最も多い問いかけは次のとおりである。

  *4歳を迎えたばかりの子どもには、どんな絵本を与えたらいいのでしょうか。
  *幼稚園の3年保育の2年度の担任です。これまで、こういう絵本を与えましたが(と絵本の題名をあげる)次には、どんな絵本を選んで与えるべきか、具体的に聞かせてほしい。

 こういう質問が中軸であるが、母親にしても幼児教育の現場にしても、絵本を求めようとすれば、3000から7000種くらいは、大都市や中都市の書店ならハンランしているので、選ぶのはそんなに苦労だとは思わないが、それらの総てを手にとって比較するわけにもいかないから、迷わざるを得ない、ということはわかる。だから、どうすればいいのか。育児や教育で子どもに対応しなければならない人びとの、切実な問いかけとなるのだ。
 しかし私は、こういう人に対して、簡単に推薦リストを手渡す気にはならないし、また、これらの人びとが、絵本を子どもたちに届けることを、一様に「与えるもの」と思いこんでいるようで、つい返答が消極的になってしまう。
 ではその「与える」とは、どういうことであろう。こういうことを解釋するのは非常にむつかしいが、こんなときのために辞典がある。手元にある小型の「岩波国語辞典」をひいても、たちどころにわからせてくれる。
 与える=自分のモノを他人に渡し、その人のものにする。現在では上の者が恩恵的な意味で授ける場合に使う、と示している。つまり、親や教師など上の者が、子どものためだとか何とか理屈をつけて、低い下の子どもに絵本を授けるということになろう。
 人間が人間に文化、絵本をとどけることが、こういう「与える」ことでいいのだろうか。親や教師が高いところにいて、そこから、おためごかしに、低い子どもに授けるようなことでいいのだろうか。そして子どもに対して、こんな風に高慢、或いは思いあがっていていいものか。
 「与える」などとは、犬や猫に餌をやるときにこそ使えるもので、人間間関係をあらわす時には、ふさわしくないと思っている。
 しかし、これくらいで驚いては駄目だ。教育の現場の先生のなかには、教室や保育室で絵本を読んでやることを「下ろす」と言い合っているのを目撃したことがある。
 教育者によるならば、カリキュラムを一日のプログラムに展開し、教材として子どもたちに手わたすことを「下ろす」と称しているわけだ。
 「下ろす」とは辞書にあたる必要もない。誰もがわかっているように、モノを高いところから低いところへ移動させる、ということではないのか。ここでもやはり大人の救いようのない思いあがりが見られるのだ。
「与える」より更に強烈な言葉だったといっていい。


経験を共有し、共に成長する関係でありたい

 では、どうにあるべきか。さまざまな理論的な、また人間学的な根拠もあるけれど、結論からいえば、勿論「与えるもの」でもなければ「下ろすもの」でもない。親と子が共に経験を同じくするもの。教員と子どもたちが、共に楽しみ、共に共感し、共に感動することだと考えなければならないのだ。
 言いかえると大人は読み手として一冊の絵本を楽しみ、子どもたちは受け手として、大人が楽しんだのと同じ絵本を感動する。
 つまり絵本を仲立ちとして経験を共有する。一冊の絵本をとおして経験を分かちあい、更に共に「成長する」というのが、大人と子どもと絵本との基本的な関係であるといえるだろう。
 だから文学館の電話での相談は、結局どんな絵本を選ぶべきか、ということであるから、「あなたの好きな絵本」「あなたが感動できる絵本」を選ぶというのが、正解であると答えることになる。
 すると人は必ず反論がでる。大人自身が選ぶのが決定的というならば、受けとる子どもたちは偏ってしまわないか。子どもたちには、もっとバランスのとれた選書がふさわしいと主張する。
 なるほど全くそのとおりで子どもたちが影響を受けて偏向するのは当然だ。大人はそういうことを正しく認識し、自らを矯正しなければならないのだ。そういうことが出来て、人は初めて大人になり、また人生の教師になり得るのである。
 しかし、こういうことだけで絵本を選んでいいのか。また問題はないのか。それはこれ以後の別の重要な問題として論じなければならないだろう。

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