たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第107号・2016.07.10
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良質な旅の物語ガイドを絵本作家の実直な目と知識が生んだ

『出発進行! 里山トロッコ列車』小湊鉄道沿線の旅(偕成社)

 

出発進行! 里山トロッコ列車 中房総というのだろうか、房総半島東京湾側(内房)の市原市に住みはじめて38年近くになる。出生地や幼児・少年期を過ごした南九州よりもはるかに永く、人生の半分以上をここで費やしているはずなのに、この土地についてさほど詳しくない。

 ”ネズミの時間とゾウの時間”とおなじで、自然の中に無垢の感性をぶつけて養った幼児・少年期の心根や四肢に深く染みいる時間のゆたかさに、市原在住の時間は遠く及ばず負けている。子ども時代を、正しく子どもそのものとして育ててくれた両親や祖父祖母・兄弟、友人知人たちのありがたさを、今しみじみと懐古する。

 子ども時代には負けるが、それでも38年という年月は、あちらこちらへ僕の足を運んだ。首都圏第2の広域市・市原は西北に京葉工業地帯を配して里山・渓谷を抱える南に長く伸びる。そんなわが町を、わが子らと桜花を愛で渓流釣りを楽しみ山間の公園ではバーベキューを囲んだ。野球少年たちと対戦相手を求めて市の内外を縦横に転戦もした。山間・林間では隣組や旧友らと球遊交流もする。しかし、此の地の此の地らしい何かにまだ触れていない口惜しさを感じるのである。後年、散歩を日課としたことで、生息する野の花の姿や匂い、虫や鳥の声に触れ、田畑のあぜ道を無心に眺め歩く楽しみをいくらかなりと得てはきたのだが……。

 そんなわが町:市原を、作者のかこさとしさんが活写するガイドブックが味わい深い絵本になった。『出発進行! 里山トロッコ列車』は、副題を「小湊鐡道沿線の旅」とするようにローカル鉄道会社のパンフレット添画依頼を、作者が受けたことが発端らしい。しかし、90歳の高齢ながら今なお日本の代表的な絵本作家でありつづける作者の仕事を見逃さない版元がいたということだ。

 小湊鐡道は、JR内房線五井駅に始発駅が接続、里山・渓谷の山間の南房総に向けて一直線に走るのどかなローカル線だ。絵本は、その沿線の歴史や文化、さらに生息する植物や生物まで、作家の実直さで調べ上げて語り描かれている。

 もともと工学博士で技術者だった作者の筆致は童画の温かさを保ちながら、列車や生物などの描出は精緻に捉えられている。解説テキストもみごとで楽しく豆辞典のおもむきだ。いわゆる旅行ガイドとことなり、作者は読者になにひとつ媚びていないのがすこぶるいい。調べて分かった事実や知識、感じた思いを、トロッコ列車の進行物語とともにイラストやテキストに朴訥に描き上げて走りきっているではないか。

 小・中学生ばかりでなく、大人たちにとっても傑出した”市原を知る教科書”であり、一味も二味も風趣ゆたかな旅のガイドになっているではありませんか。

 ぼく自身、38年も住み続けてろくろく知らなかったわが町や村の、そのものの一端を教えてくださった作者のかこさんに御礼を申し上げなければならない。

(『出発進行! 里山トロッコ列車』 かこ さとし 偕成社)

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