こども歳時記

〜絵本フォーラム110号(2017年01.10)より〜

言葉は言葉で育ち、思いは思いで伝わる

 89歳の父が自宅療養している。筋萎縮性側索硬化症という病気だ。呂律が回りにくくなったことがはじまりだった。検査や入院を経て診断が確定した時には症状が出てから10か月がたっていた。告知の時、医師は“難病中の難病”という言葉を使った。進行性の神経疾患で、原因は不明、治療法も確立していない。「しゃべれない、食べられない、動かせない」という症状がランダムにあらわれてくる。高齢発症ほど進行が速いらしい。とすれば、父は遅からず、口から食べられなくなり、自ら呼吸もできなくなるだろう。そうなると、生命を繋ぐための手段はわずかしか残されていない。

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何かの間違いではないか。もしかしたら奇跡が起きるんじゃないか。相手はないのに、恨みを抱いたことも一度や二度ではない。気持ちの整理がつかないまま在宅介護が始まった。仕事を遅刻する、中抜けする、早引けする。全介助でのミキサー食の食事が一日3回。夜中に何度も起こされる。病状に翻弄される毎日が続いた。 大人だけの落ち着いた暮らしのペースが激変して、気持ちにも体にも疲れがたまってきた頃、ノーベル文学賞にボブ・ディランが決まったというニュースが飛び込んできた。その時私の頭に浮かんだのが『はじまりの日』(岩崎書店)という絵本だった。 この絵本は、ディランの“Forever Young”という曲の詩に、ポール・ロジャーズが絵を描いたものだ。ディランは「息子のことを思いながらつくった。自然にうかんできて、そのままできあがった。」と言う。タイトルは “いつまでも若く”と直訳できる。これを“はじまりの日”と訳したのは詩人のアーサー・ビナードだ。 子どもの健やかで幸せな育ちへの願いと、子どもへの信頼がこの詩を貫く。が、《きょうも あしたも あたらしい きみの はじまりの日》というこの一節だけで、年を重ねた人にも、エネルギーがわき 出てくるのではないか。

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おとなは、子どもに、どんな言葉をかけどんな思いを伝えていくのか、存在が問われる。言葉は言葉で育ち、思いは思いで伝わる。 家の者は私に、「介護が始まってから優しくなった」という。車椅子の上で、思うにまかせない咀嚼に涎を垂れる父に対して、不思議と優しい言葉が出てくる。その言葉は子どもの頃に父や母からもらったものだ。夜中に起こされてもその時間が愛おしく思える。それは、そういう風に育ててもらったからだ。父に注いでもらった60年分の言葉と思いが、今は私から父へと戻っていく。 治癒の見込みがない89歳の父にも、今日がはじまりの日と言えるかどうか、今の私は答えを持たない。けれど、いま父に「あなたのことが大好きだ。少しでも、長くいてほしい」と声を掛けながら日々を過ごしている。(よしざわ・しづえ)


吉澤 志津江(絵本講師)吉澤 志津江

はじまりの日

「はじまりの日)
(岩崎書店)

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