たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第112号・2017.05.10
●●101

こんな宿題、あったらいいな。

「しゅくだい」(岩崎書店)

 

しゅくだい いつか来た道を逆に歩きはじめていないだろうか。

 権力者たちが世界の各地で暴走する。富を独占する少数と、貧困と抑圧に苦しむ多数の存在。グローバリズムの歪さに由来するのだろうか、そこに偏狭なナショナリズムがしのびより、ポピュリズムとやらの風潮が起こる。もちろん、日本も例外ではない。  

 あろうことか、戦後まもなく否定された教育勅語を現在の閣僚たちが称賛する。こんなふうだから、園児たちに勅語を暗唱させるという幼稚園まで生まれていた。…悪夢を見ているようだが、現実なのだ。

 かつて家永三郎が、教科書検定は憲法の規定する「表現の自由」「検閲の禁止」に違背すると国を相手に訴えた裁判は、国民を巻き込む大訴訟となった。ぼくら国民は、訴訟のおかげで祖国の歴史の真相や、のぞましいと考える教科書記述についていくらかなりと考えるようになった。…はずだったが、もう、忘却の彼方に追いやってしまったのだろうか。

  国や権力者たちのおこなう「なんだか、おかしい…」と思えることを、ぼくらが放念しておくと、いつのまにか、のっぴきならなくなる。ここに至らせた小さな国民のひとりとして恥ずかしくも腹立たしい。

 子どもたちの教育環境の推移をみても、そうとう変だ。教育基本法の改定も、定期的に行われる学習指導要領改訂も、どんどんおかしな方向に向かっていないか。いつか来た道をあともどりし、さらにと力でねじ伏せる教育状況が生まれていると、ぼくは思う。

 四月に小学六年生・中学三年生が一斉に全国学力テストにのぞんだ。これで10回目だ。ただでさえ、塾通いに宿題づけで時間に追いまくられる子どもたちなのに…。教育委員会や学校は、得点順位を上げようと子どもたちの尻をたたいていないか。

 ともだちと野や山にあそび、遊びにたわむれて友情を育む、読書に親しみ視野を広げる。そんな子ども時代を現在の子どもたちは送れているのだろうか。

 たとえば、宿題。ぼくの子ども時代、「夏休みの友」といった日記をかねた宿題が夏と冬の休みにあった。ながい休みの最後の三日もあればだいたい片づいた記憶がある。昆虫採集とか絵画・工作のたぐいをひとつこなすという自由課題もあった。これは、学校でできないことをやれるだけに、結構楽しんだように憶う。中学校では宿題らしきものはなにもなし。これらにしたって「休み」なんだから、おかしくないだろうか。

 わが孫は高校二年生。高校生になっても、宿題だらけ…。部活動にも夕刻まで励むのだから、自由な時間はスマホのゲームだけ。これでは、なにごとかを考えたりチャレンジしたりする時間はまったくなし。かわいそうだろう。おかげで、爺さんは、孫とあそぶ時間をすっかりうばわれている。 ところが、すばらしい宿題をだす先生がいた。こんな宿題があったら幼児や児童はきっと喜ぶ。先生はヤギのめえこ先生である。

 先生は、「みなさん、きょうのしゅくだいは、”だっこ”です。おうちのひとにだっこしてもらってください」とやったのである。

 前代未聞のしゅくだいに動物の子どもたちは大さわぎ。「えー、うそー」「はずかしいよ」「どうしよ〜」といいながら、なんだかうれしそうなのである。

 で、モグラのもぐくんも張りきって家へ。帰ったのだけれど、お母さんは、あかちゃんの世話でいそがしそう。もぐくんをなかなかかまってくれないではないか。

 家族でかこむ夕食どき、「しゅくだい、おわったかい?」「なんのしゅくだいなの」とみんなに問われてもぐもぐするばかりのもぐくん…。ようやく「だっこ…」ときまり悪そうに言ったとたん、家族はにぎやかにはねたのだ。「じゃ、はやくしゅくだいやりましょう」とお母さん。お父さん、おばあちゃんとだっこぜめにあい、もぐくんだけでなく家族みんなが大興奮で心をはずませたのである。このはなし、教育現場で「だっこ」の宿題を実際に実践した原案者の体験をモチーフに、作者いもとようこが傑作絵本に創造した作品だという。

 本来、宿題は、こんなものではないのだろうか。学校でできないことを家庭で、家族いっしょでつくりあげる何か、こんなふうに考えたら、宿題をだすのも悪くはない…か。

 もぐくんの耳元でささやいた「また、だっこのしゅくだい、でるといいね」は疑いようのない、おばあちゃんの本音であったのだろう。

(おび・ただす)

『しゅくだい』宗正美子 原案/いもと・ようこ 文・絵/岩崎書店

 

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