えほん育児日記

   
母になった喜びとダウン症という衝撃


~絵本フォーラム第119号(2018年07.10)より~  第1回

 わが家の一人娘は小学5年生。絵本とぬいぐるみと工作が好きで、将来の夢はお料理屋さんという、明るくおしゃべりな10歳の女の子です。生まれて間もなくダウン症と告知されたときには、今みたいに娘と楽しくおしゃべりできるようになるとは想像できませんでした。

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多本ゆき枝 私の子育て1 娘は11年前、私が40歳になって真剣に子どもが欲しい!と試行錯誤している最中に、お腹の中にやってきてくれました。妊娠中は初期に軽いつわりがあったものの、順調でした。胎動を感じるようになった頃、なぜか直感で「この子は女の子だ。名前は“しほ”だ」とひらめきました。それからは、お腹の中の赤ちゃんに向かって「しほちゃん」と名前で呼びかけ、毎日たくさん語りかけました。

  臨月近くに散歩していると、お腹の中で赤ちゃんが下がってきて歩きにくくなったことがありました。そこで、お腹に向かって「しほちゃん、下に下がったらお母さん歩きにくいから、上に上がってくれる?」と頼んでみました。すると、スルスルとお腹の中で上に上がってくれるではありませんか。なんて賢くていい子なんだろう、と感心しました。お腹の中で赤ちゃんはお母さんの声を聴いている、と本に書いてあったけれど、本当に聴いているんだ、と嬉しくなりました。

  そして、無事に出産。私は41歳にして母になりました。私の母もこんな気持ちで私を生んでくれたのかと思うと、母への今までとは違った感謝の念が湧き上がってきました。里帰り出産でしたので、両親に「私を生んでくれてありがとう」というメッセージカードと出産記念のペアコーヒーカップを手渡し、改めて感謝の気持ちを伝えました。

 母の声を聴いて順調にお腹の中で育ち、出産予定日の3日前に元気に産声を上げた「しほちゃん」でしたが、生後1ヶ月半でダウン症候群という診断を下されます。本来2本のはずの21番染色体が3本並んでいる写真を見せられては、否定しようがありません。診察室から母子で出ていくとき、看護師さんがついてきて「大丈夫ですか?」と声をかけてくれましたが、そんなに私は可哀想な人なのかと腹立たしく、悲しくなりました。その時の私に必要だったのは同情ではなく、ダウン症児の子育てについての有用な情報だったのに、医師からも看護師からも何ももらえず、下を向いて帰るしかありませんでした。

  高齢出産でしたが、出生前診断の検査は受けませんでした。分かっても治すことができない染色多本ゆき枝 私の子育て体異常の検査はしない。せっかく授かった命なのだから産まない選択肢はない。一度流産した経験から、もし赤ちゃんに生きる力がなければ途中でサヨナラするだろうし、障害があっても生きる力があれば元気に生まれてきてくれるだろう、と考えたのです。いま、新型出生前診断が簡単に受けられますが、果たして誰のためのものなのか。授かってから、こんな子どもなら引き受けます、こんな子どもなら要りません、というのは、何かが間違っているのではないでしょうか。

 ダウン症の告知を受けて最初に思ったのは、お受験の道からは下りたな、でした。妊娠中に育児書をたくさん読んで、こんな子育てをしよう、あんなこともさせよう、と膨らませていた夢が一気にしぼみました。でも、落ち込んでいる暇なんかありません。ダウン症について勉強しなければ! どう育てたらいい? 私は何をするべき? 母としての責任感が私を前向きにさせました。幸いなことに娘には合併症がなく、元気でした。

  ダウン症関連の書籍を読む中で一番心配になったのは、しゃべらないかもしれないということ。せっかく母となったのに、我が子から「おかあさん」と呼んでもらえないかもしれない……。これは衝撃でした。しばらくはお風呂場で一人になったとき、シャワーを浴びながら涙と共に不安な気持ちを流していました。それでも、ダウン症があっても不幸ではない、と自分に言い聞かせ、娘にはいつも笑顔で向き合うように心がけていました。
(たもと・ゆきえ)

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