絵本・わたしの旅立ち
絵本・わたしの旅立ち

絵本・わたしの旅立ち
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つくり手は楽し夢多し
 わたしたちには、いろいろ表現したいという思いがあります。その思いで、いっぱいになって溢れだすところに芸術があり、生れるようです。
 そして、表現の方法や種類によって、芸術のかたちが決ります。
 オーケストラの作曲家は、ひょっとしたらバイオリンもひけないし、ティンパニーもたたけないかもしれませんが、それぞれの音が集れば、自分の思いが一ばん正確に出せるか、表現できるか、という特技や能力をもっているのです。だから自由自在に、いろいろな楽器をひっぱりだして、ひとつの新しい世界をつくりあげるのです。

 ところで絵本の作家、つくり手は、ご承知のように、文章と絵とが響きあうことによって、自分の思いが充分に形として表現することを実際にくりひろげる芸術家です。
 こういえば文章+絵だけが絵本を組み立てる要素だと、思いこむ方もあろうと思いますが、そんなに厳密に頑なになる必要はありません。
 例えば物語の場合、主人公が歌う歌が筋の展開に非常に大切な役割を果すのであれば、ちょっとした歌声の入ったテープであるとか、または楽譜を挟みこまければならないでしょう。
 このように無、なにもないところから、有、新しい世界をくりひろげるつくり手は、あらゆる分野の方法を駆使してのびのびと仕事をしてもらって、これまで誰もが経験することがなかった「もうひとつの世界」を、自信をもって立ちあげてもらいたいと思っています。

 しかし絵本の特徴は、やっぱり文章+絵、または絵+文章で表現されるものであることが常識といえるでしょう。
 そして内容によっては、文章が中心になったり絵が内容の核心をおさまったりして、前へ前へと進みます。
 作家がつくりあげて提示した世界は、第二次的創造者、つまり文章家と画家によって受け継がれていきますが、作者は誰と誰によって二次的な創造をするかの人選もできることが特権になるかもしれませんし、その二次的創造者が、作者が予想した以上の力量をもっていて、期待以上の芸術してくれるかもしれません。

 作者はつくり手として、かたちが、どういう程度の意外性と秀れた表現となってくれるか、胸をドキドキさせて待つ楽しみ喜びがあるというものです。
 けれども、その反対の場合だってあり得ますから、いつもヒヤヒヤしながら、自分が懸命につくりあげたモノの成果を待つ、ワクワクした思いで胸がいっぱい――つくり手は、こんな複雑な経験ができる恵まれた役割を果すわけです。

 これは三次的創造者の仕事、作者が創りだし、文章かきや絵かきが固めた絵本のかたちを複製――つまりコピーして本としての姿として完成させる場合、またかたちになった絵本を受け手である人びとに、どのような伝達――手渡し方をするかという場合にも、作者は同じ思いをしなければならない存在となります。

 以前は、こういう絵本の段階は、編集者が肩代りをしたり、または出販という流通にかかわるようなひと、また当然のことながら、文章家や画家が作者の世界に進出する場合もあり得るのですが、専門性をより高めるためには、絵本作者の作家としての独立、創造部門の創造者としての報酬を忘れられずに受ける資格が認められなければなりません。

 わたし自身、そういう絵本創造の先駆的メカニズムの社会的承認を、どれだけ進めるか。そのことに心身をどれだけ削ってきたことでしょう。しかし必ずしも絵本作家の独立は、その夢の大きさに比べてみても充分普及したとはいえないのが現状です。

「絵本フォーラム」46号・2006.05.10


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