絵本・わたしの旅立ち
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絵本・わたしの旅立ち
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昔話だって人間と同じく成長する

 わたしは絵本の書き手ですから、読んで下さる方々からの反響が、たいへん気になります。その大半は、いつもこれからも仕事をつづける勇気を与えて下さるので有難く、胸を熱くする場合が多いようです。

 しかし逆に批判され、冷汗をかくことも始終あって、創造という仕事の厳しさを、しみじみ感じさせられことも一度や二度ではありません。

 それは事実の誤認や言葉づかいの間違いなど、さまざまですが、作家であると同時に文章を担当する私には、簡単に対応できないものも交じっていて、ふと時には戸惑ってしまうこともあって、ため息をついたりします。

 とくに世間では誰にもよく知られている昔話や伝説の絵本化・脚色や再話に対しての批評に微妙な認識の違いも多く、とりわけ物語の内容について、

 「勝手に物語の筋だてを変えるな。原話を歪曲するな!」

 などが一ばん辛辣であるようです。

 「三びきのこぶた」という著名なイギリスの昔話があります。例えばジェイコブスという人が採集して記録されたストーリーでは、狼が次々にブタを食べていくようになっています。

 それはそれなりに筋だてとしては緊張感もあって、子どもたちに深い感動を与えると思われ、ジェイコブス流の展開が絶対的な評価を受け、プロットに手をいれるなど不逞の極みで、うっかり手をつけたりすると児童文学者失格を言い渡されてしまいそうです。

 しかしわたしは原話の再話には、基本的に二つの側面があって、一つは原話をいかに正しく伝達しようとするか、という普通の脚色者の姿勢もあれば、脚色者自身に伝えたい強い内容があり、それをより適切に表現するために既存の、いわゆる原話をどう「依用する」か、という観点を許容する立場だって、あっていいでしょう。

 いつも引用するように昔話などの口で語り継がれていくものは、「語り手と聞き手との関係」によって絶えず変容する、という柳田国男の指摘もあるのです。

 ある時、わたしはグリム童話の「赤ずきん」を脚色したことがあります。すると、そのとたん、

 「この脚色は明らかに岩波文庫の『グリム童話集』とは違う。こんなに歪曲するとは、けしからん!」

 とあからさまな非難の合唱で面くらってしまいました。もちろん誰もが承知しているように、この昔話は一八〇〇年代の前半、実際ドイツで伝承されて語り継がれていたものを、グリム兄弟が採集し、少々整理して記録したものです。

 昔話など、文学作品のように決った作者がありませんが、誰かが単純な素朴な話を語りだし、それが実際次から次に語られている間に、徐々に筋だてが整い、過不足のないステキな物語として完成させたものでしょう。

 つまり物語も人間と同じように生れ、そして語り手と聞き手との交流のなかで成長し、一人前になったと思うと、人間と同じように衰弱し、全盛時代の頂点をとどめないほど、抜け落ちてしまうわけです。実際一つの物語が普及して繰りかえし語られると、語り手と聞き手との間にお互い共通のものができて、とりたてて語る必要がなくなっても、結構語りモノとしては成りたつわけです。

 しかもすぐれた良心的な採集者による記録は、生まて聞き得たそのままを正しく文字化している筈ですから、残念ながら採集されたまま、物語として固定してしまいます。むしろ権威ある採集者の記録、文章化ほどその傾向が強いのです。

 わたしたちが付き合う話が、良心的な原話であればあるほど、その物語が、その物語としての成長の歴史のどの段階に記録され固定されたか――これを追求することが、原話とつきあう最初の仕事になります。脚色者や再話者は、こういう厄介な作業をしなければ仕事の出発ができない宿命を背負っているのです。それは何故なのでしょう。

 


「絵本フォーラム」49号・2006.11.10


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