絵本・わたしの旅立ち
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文書書きは物語を捌くお医者さんですか

 子どもたちは、はじめて出会ったときの「絵本の物語」が、その物語のたった一つの本当のすがただと、思いこんでしまいます。

 それは人の第一印象が強く尾をひいて、ずっとあとあとまで、その人との交流に深い影を落すのと非常によく似ています。

 最初に出会った絵本のために、大げさにいうならば笑いとばすわけにいかないコッケイなことも起るものです。

 松居直さんが、いつか苦笑しながら、自分が苦労して編集しなおした宮沢賢治の絵本「セロひきのゴーシュ」について語ってくれたことがあります。

 彼は賢治の童話の力に匹敵できると思われる茂田井武の、これも終生の傑作の絵を配し、おそらく編集者冥利に胸を熱くしていたら待ちかねたように子どもから指摘する声が舞いこんできたというのです。

「あのゴーシュはおかしい。学校で教えてもらったのとは違う!」

 松居さんのことだから注意深く原話を校閲し、万全を期して編集しなおした絵本です。心外というほかないでしょう。早速子どもの周辺を調べてみると、子どもが学校で出会った「セロひきのゴーシュ」は、教科書の収容ページ数を起えないために、原作のところどころをカットした、品格のない缺陥商品だったのです。

「この物語も教科書関係者の心ないダイジェストのため、多くの子どもたちが、生涯ゴーシュの真の面白さに触れることなく終るのか」

 松居さんはバカらしく、また口惜しい思いに堪えられなかったのではないでしょうか。

 いよいよ低俗化がすすむ子どもの文化のなかで、せめて教科書くらいは非文化的児童文化を拒否する「最後の砦」であってほしいものです。

 そういうこともあって、物語が新しく子どもたちの前に姿を見せるときには、少くてもストーリーとして完成度の高い「かたち」であってほしいのです。

 子どもたちは最初に出会う絵本とのつきあいを「キー」として、その後の同種の物語を正当に評價できる能力を身につけてくれるわけです。

■つらい仕事が待つ

 そのために私たちには、物語として成長過程にある時期に文章化され、固まりつつある昔話などは、完成直前までの未完成なところを見抜いて、適切に「補填していく作業」が必要です。

 また一方では物語として完成の後、送り手と受け手の間に、語らなくても共通の諒解があることがわかり、普通なら当然触れなければならない部分を欠落させたり脱落させたりしかねません。

 だから新しい受け手には、省略された部分を本来のすがたに「復元する作業」が絶対必要です。厄介な作業ですが、文章をかく専門家の責任なのです。

 あまりにも有名すぎるグリムの「白雪姫」などは、それら補填と復元との練習の物語としては、理想的な仕掛をチャンと用意してくれています。

 グリムでは全篇活躍するあくどい継母。継母が来るくらいですから当然、その配偶者がいておかしくないのに、全く姿をあらわさない。なぜなのか?

 またこの物語のクライマックスは、毒リンゴを食べさせられ落命したときに突如王子があらわれ、しかもその王子が物語にかかわると都合よく白雪姫が生きかえり、王子と共に幸福な終末へと確実に向っていくわけですが、すべては全く偶然なのか。複雑な伏線がありそうなのですが、それらは、なぜあからさまに私たちに語るのを避けようとしているのでしょうか。

 こうして個々に検討していきますと、見えないところで、理解できたり出来なかったりする「大きな闇」のあることが、わかっていただけるでしょう。

 さらに物語作者はスピード感をあげたり、登場人物の人間々関係を、作り手独特の切口で料理を示し、全く反対の側面を見せて逆に私たちを混乱させます。

 書き手は自由自在に物語を繰り、より効果をあげるためには医者めいた素振りでメスをふるおうとするのでしょうか。

 では絵の世界では、どうでしょう。興味ぶかい桎梏が私たちを待ちかまえているのです。

 


「絵本フォーラム」50号・2007.01.10


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