絵本・わたしの旅立ち
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絵本・わたしの旅立ち
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画家や絵本画家とのふしぎな出会い

実際に絵本の絵を描いている画家には、いろいろなタイプがあって、わたしたちを迷わせてしまいます。

 たとえば「絵本の評価を決めるのは、まず絵が 70%だね」と、うそぶくような人。もうひとつは、それに対して「しがない絵本の絵なんぞ描いて、糊口をしのいでおります」と恥しそうに顔を赤らめるような、本来タブロウを主とする画家たちです。

 そのどちらにあっても、絵本にとって絵は大切なものですから、感動的なすぐれた出来ばえでありさえすればいいわけです。

 ところで芸術的な創造は、つくり手のこころを隠すことができない――つまりウソをつくことのできない正直な世界です。それに絵本の絵のような見ただけでパッと創り手のこころやかたちが理解しやすいものと、文学のように、少々厄介な経過をたどらなくてはならない分野もあって、受け手を混乱させてしまうのです。

 文章などは、はじめに読もうという気を起すこと――動機づけのようなものが出発点で、まず文章のかたちである言葉の象徴である字を目で捉え、その刺激に誘われて、あたまの中で、やっと具体的なイメージを描いて漸やく理解できるジャンル、つまり「まわりくどい道すじ」を持つもの。

 それに対して、絵は直接的であり、「まわりくどい」文章よりは理解が正しく簡単にできるような認識があるので、文章よりは、表現の中心にあるような思いを持つ存在なのです。

■へりくつみたいでゴメンナサイ

 こういうアイマイな、めんどうくさい説明だけで「絵本は絵で 70%」とうそぶいているわけではないでしょう。反射的に即断できない、理解のエネルギーを必要とする文章や言葉や文字の難解さより、パッと正体が見抜ける絵の方の魅力に引きずられ、しかも自分が画家としてそういう重大な側面を担って役割を果していると考え、ついそこのところだけが絵本のちからの源泉だと思いこみ、結果として絵本画家に「絵本の絵で70%」と、うそぶかせるやや思いこみがあったのではないでしょうか。

 絵本に於ける絵と文章とが占める物理的な割合は、このシリーズのはじめに触れたように、絵本で表現しようとする「絵本の全内容」が、質的にも量的にも要求する程度によります。

 そういうバランスを抜きにして一般論として「 70%」と主張するのは、創造の道すじの中の第一次的なものである「絵本の中味」の捉え方に問題の根があるのではないかと言えそうです。そして一応パッと捉えられる性格を重くみて「これでもか!これでもか!」と描きすぎてしまう傾向があらわれる。具体的に絵だけが先行する、という落とし穴があるようです。

 これは絵の分量が多すぎて結果として文章の想像性を抑えたり、絵にだって当然として存在する文章に負けない想像力への橋わたしを自ら失わせてしまういわば謀叛となり兼ねない事態を引き起します。引きつづいて別に書くつもりですが、描き過ぎないという点では中国の古い詩を素材にしたユリー・シュルヴィッツの絵本『よあけ』(瀬田貞二/訳、福音館書店)の絵本の絵のたたずまいの抑制された見ごとさには魂を揺すぶられるような凄さを覚えるのです。

■片手間だとそしられ

 一方「しがない絵本の絵を描いています」というひとが存在するのは事実ですが、こういう言い方は自分の画業としてのレベルの低さを恥じてのことか。また絵本というものが育児としての必需品としてはともかく、芸術とは本質的にマイナーな「しがない」存在だと自虐的に自分を納得させようとしているのか。生計を得るための手段としてやむを得ず絵本や童話・紙芝居のイラストをこなしている、すぐれたタブロウの画家であるにかかわらず生活を支えるために芸を売ることの言いわけや羞恥心や気遅れがさせる言い分か。また奥ゆかしい謙虚さであるのか、わたしには、さだかに決められないのが残念です。アア!ヤヤコシイ!ゴメンナサイ。(この項つづく)

 


「絵本フォーラム」51号・2007.03.10


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