えほん育児日記
〜絵本フォーラム第60号(2008年09.10)より〜

「子ども時間行きのチケット」

 ここのところ長女の爪を切っていない。といっても長女の爪はこれ以上切るところがないくらいに短い。彼女が爪を噛んで短く、短くしているのだ。ここのところと書いたようにこれは次女が生まれてからの癖だ。

 「なっちゃんを生んでくれてありがとね」長女はよくそう言ってくれる。実際、彼女はひどくお姉さんだ。私たちはまだ 4歳の子だから可愛がる時とそうでない時の差がすごいであろうと想像していたが、彼女の妹に対する態度にはあまりムラがなく、何かに夢中になっていると妹に気がいかないこともあるものの妹が泣くと「あー、なっちゃん」と親より先にとんでいく。その様子は小さなお母さんと言ってもいいくらいだ。

 どうやら彼女は姉になってうまれた責任感の重みと闘っているようだ。すすんで姉らしくあり、不満も言わないものの、無意識のうちに短い、短い爪をして「幼稚園にも保育園にも行かない、ママの傍にずっといるの」と言って内にうまれたストレスをちらりと見せている。

 私たちも親になり早 4年、あたふたとしていた子育てにも少し余裕ができ楽しめるようになってきている。しかし、長女のことではやはり若葉マークの親であり些細なことで気をもんでは夫婦で夜中の会議となる。ここのところの議題はむろん「長女の爪かみ、そのストレスについて」である。彼女は周りから期待されるような良きお姉ちゃんであって褒められたいのだと思う。と同時に以前のように父や母を独り占めにして甘えたいのだ。前者は彼女の頑張りによってかなえられているが、後者は姉としての自覚、赤ちゃんではないという意識が邪魔をして表に出すことができずにいる。そして爪を噛む。わたしは悩む。彼女の葛藤が分かり「いいのよ」と言ってあげたくなりながらも「爪を噛んじゃ駄目よ」と言う。「爪を噛むのは寂しいからなのね。もっと甘えたいのね」などと言う変に物わかりのよい親ではかえって子どもも逃げ場がないように思えてその言葉を飲み込む。這いだして目の離せない次女がおり、以前と同じようにはしてあげられない今、私たちは長女が出してきたこの信号にどうやって答えることができるだろうか。

 『ヘルシー家のおひさま日記』。幼少の頃、祖母に食べられる野草を教えてもらったこと、沢ガニ捕りに行ったこと、桑の実で舌を染めたことなどが鮮やかに思い出される。時が経つにつれて鮮やかさを増す記憶。子どもたちにもそんな体験を手渡したいと思った。

 先日、家族で山の中での自然観察会に行った。私は次女をおぶって長女と網を手に汗を流した。主人もまた、我を忘れてトンボを、蝶を、バッタを追った。射す様な日差しにも関わらず、空気は軽く、風が心地よく次女はぐずりもせずに暑い背中で夢の世界にいた。解説員のおじさんたちに声を掛けながら走り回り、汗を流す長女の笑顔はあまりに子どもらしいそれで見ている私たちを完璧なまでに幸せにした。解説員の方から名前を聞いたり、顕微鏡で観察するときの真剣な顔。トンボの雌のしっぽを水面にちょんちょんとつけたまごを生ませる体験に夢中になり眩しいくらいの目の輝き。

 彼女は書物である本と木、風、水、生き物、音そんな紙に収まりきらない本たちの間を自在に行き来する。共に「ある」のだけど関わらなければ心に響かないものたち。

 彼女が形ある本と形のない本を行き来するように、わたしたちは時間を行き来する。親としての時間とかつての子どもだった時間。

 小さなところにとどまっていた心を存分に広げて過ごし、帰って見ると長女の爪が伸びていた。

 次女は、長女が同じ時期にお気に入りの絵本があったのに比べるとまだ形ある本にはあまり興味がない。それもまた良しと今日も絵本を開く。家族の声という本には大好きな次女も慌てて這ってくる。

 この時間がいつか子ども時間行きのチケットとなってくれれば嬉しい。

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