えほん育児日記
〜絵本フォーラム第60号(2008年11.10)より〜

「今日も家族中で楽しんで」

 ふぅ。私は私の中にあるずっと閉まったままの窓の前の窓を隠すように積まれた荷物をどけて深呼吸し、窓を見上げた。少し顎を上げて、やっとここに立てたという顔で。

 ここのところ、私は小学校3,4年生くらいの時に読んだ作文をよく思い出していた。病気がもとで車いす生活を送る中学生が「公園で小さな子が『お姉ちゃんはどうして車いすに乗ってるの?』と尋ねてきた。興味深そうな人懐っこい目がかわいらしく、『お姉ちゃんはね … 』と答えようとして少し身をかがめた時だった。お母さんが『その人を見ちゃダメ』と手を引いて行ってしまった。私は答えたいと思っていたのだ」と書いていたくだりである。何が間違いだったのか分かっている。その場にいたら模範解答をやってのけていただろう。でもそのお母さんと私の何が違うだろう。私はやはりハンディキャップをもつ人を見ないようにしている。読後、そんな自問自答をしたものの、自問自答したことすら忘れ去っていた。

 きっかけは長女である。彼女は「誰に似たのかね」と主人と二人して首をひねるほど社交的な面があり、あちこちに挨拶を交わす仲の人がいる。その中に私の実家が営むレストランの常連さんである目の不自由なご夫婦がいる。これまで娘は目が不自由であるということに気がついているものの気に掛けている様子はなかった。だが、ここのところ気になるのである。口にお皿をつけて食べる様子、携帯電話を使っている様子。彼女はじっと見つめていることがある。私は「さっ、食べようか」と視線をそらしながら、あの作文のことを思い出していた。戻ったのだと思った。再びわたしは自問自答した。

 一冊の絵本を見つけて帰宅した。『見えなくてもだいじょうぶ?』。(フランツ=ヨーゼフ・ファイニク / 作 フェレーナ・バルハウス / 絵 ささきたづこ / 訳)次女が本棚から本を手当たり次第に出し、お気に入りの『じゃあじゃあびりびり』を運良く手にし思う存分舐めている横で私と長女はこの絵本を開いた。人だらけの市場で迷子になって泣いていたカーラを唯一見つけ出してくれたのは目の不自由なマチアス。両親を探して歩く道中、好奇心のかたまりのカーラはどうして目が見えないの、困ることはないのとなんでも質問。家にたどり着き、一緒に探してくれたのがマチアスと知り目が不自由なのにと驚く両親に「あのね」と得意になって説明できるまでに理解していくというストーリー。

カーラはわたしだ。なんだかんだと理由をつけてハンディキャップを持つ人たちと生活空間を分けられていて、率直でいられる年の頃に接する機会をもたなかった。「差別はいけません。みんな助け合いましょう」と学んだ。見ないふりを身に付けた。困った時には助けると言いながら。でもわたしはカーラなのだ。本当は聞きたいことだらけの。二人のカーラはそれぞれにふんふん頷きながらページをめくった。

その数日後、長女は再び目の不自由な人たちに出会った。じっと見ていた。食事が終わり出ていく彼女たちの傍に行き何やら言いたげだ。なんだろうと思っていると「お金、忘れてるよ」とそっと一人の人に手渡した。戻ってくると「ゆーちゃんはね、まだ小さいから届かないものはママにとってもらうでしょ。ゆーちゃんも手伝ってもらうし同じだね」と言った。できることを探し一生懸命な彼女の視線をそらそうとはしなかった。

 彼女は自身の窓を開き、その目で物事を見る。わたしたちの窓には幾重にもフィルターが被せられ、窓を覆い隠す常識、知識をまるで窓からも同じものが見えるとでもいいたげにどけることもしない。主人と二人、絵本を読みあい窓の前のものをどけてみた。その窓から見えたのは幾つもの窓だった。差別を恐れて区別していた私たち。窓は一つと思いこもうとしていたけれど、あの人との間にある窓とこの人との間の窓は違うものだ。

 答えに見えるやっかいなものがごろごろと転がっている現在。絵本は自分の心でしか感じることができない面倒なものだ。その面倒を今日も家族中で楽しんでいる。

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