たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第61号・2008.11.10
●●50

ありのまま、自由というイメージから生れる純朴な好奇心

『ひとまねこざるときいろいぼうし』

 大柄の無粋なサルはご免だが、ひょうきんで俊敏に戯れる子ザルは愉快である。

 幼児期にぼくが住んだ宮崎串間の崎田海岸は野生の馬やニホンザルの生息地として名高い都井岬に近く、就学期に転じた父の郷里・城下町飫肥は海岸線に下ると、これも野生のサルで知られる幸島が近海に浮かんでいた。しかし、いずれの地にも成人するまで訪れていない。だから、ぼくがサルを知り、親しみを感じたのは祖母や母が語ってくれた桃太郎などの昔噺からだった。実際のサルを見たのも八幡さんの祭りにやってきた猿回し芸人に出遇った学童期のこと。

 昔噺に登場するサルも芸を披露し愛嬌を振りまくサルもぼくの心をしっかり捉えた記憶がある。その邪気のない純真な仕種によるのか、ひねたり拗けたりというのとまるで異なる天真爛漫な行動ぶりに強い共感を覚えたのだろうか。

 絵本『ひとまねこざる』シリーズの主人公ジョージもぼくが学童期にイメージしたサルとそっくりである。

 「…、じょーじは、あふりかに すんでいました。まいにち、たのしく くらしていましたが、ただ、こまったことに、とても しりたがりやで、ひとまねが だいすきでした」というのだから、自由で、ありのままに、のびのびと生きる姿が容易に想像できるだろう。

 例えば『ひとまねこざるときいろいぼうし』の巻。ジョージのあまりの可愛さに生け捕りを企むおじさんが囮にした大きなぼうしにまんまとひっかかり、ぼうしを被ったところを捕獲される。ところが、ジョージはアフリカを去るのを少し悲しむがさして驚きもしない。何でも見てやろう、の興味や関心の方がはるかに上回る。なにしろ、何でも知りたい知りたがりやで、何でもかんでも真似したくなる好奇心を募らせる。万事に興味津々の天真爛漫ぶりなのだ。かもめを見ては、両手を広げて海に飛び込んで溺れそうになったり、人並みにテーブルで食事、パジャマを着てはベッドで眠る。 ( パイプで一服はいただけないが ) …。

 あるときなど、おじさんが動物園に電話をするのを見てまねたくなり、1、2、3、4、5…と面白がってダイヤルすると何としたことか消防署にかかる。さぁ、蒸気ポンプ車から梯子車まで駆けつけて火事はどこだと上や下への大騒動…。いたずらのお仕置きは牢屋入りとなるがジョージは平気の平左でするりと抜け出してしまう。風船をつかんだために風に煽られて信号機に着陸となるジョージ。で、交叉点は大渋滞である。

 こんな興味の走るままに跳ね回り、いたずら三昧に生きるジョージだが、不思議なことに憎めない。人徳なのか、サル徳なのか。底意や悪気なく純朴で無邪気…、ありのままに生きる姿が子どもだけでなく大人の心まで素直さを回復させて気分よく感じさせてくれるのだ。

 もう 20 年ほど前になるだろうか。まだ健在であった父と日光を旅した折、サルの大群に触れた。人間たちとおなじようにサル社会も社会経済文化の大変容があったのだろうか、そこには、素朴さや天真爛漫とはほど遠い独善・凶暴なサルたちが集団で闊歩していた。

 サルも木から落ちていた。サル真似はサルの特技だろうが、人間社会の澱みまで真似されてしまうと何だか落ち着かない。自然に遊ぶ、自由にありのままに生きる。本来のサル社会が持つそんな社会経済環境をいくらかなりと創造する試みをぼくらは行うことができるだろうか。ときおり惹起される子どもたちの氾濫と日光の狼藉サル軍団が重なり映り、対照にのびのび明るいジョージの姿をフレームアップさせると、なにやら考えさせられるではありませんか。

『ひとまねこざるときいろいぼうし』( 文・絵 エッチ・エイ・レイ 訳 光吉夏弥 岩波書店 )

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