たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第62号・2009.01.10
●●51

せいいっぱい生きたおばあちゃんの天国までの一年

『おばあちゃん』

 65歳以上を前期高齢者とし75歳になると後期高齢者とする呼称が跋扈する。社会保障の制度利便性から規定されたようだが、お年寄りの尺度をどうにでも出来るように考えているようで愉快でない。
  64歳のぼくはとりあえず前期高齢者の一歩手前だ。けれど、孫からみればじいさんだし、ぼく自身も加齢によるあれやこれやの不都合を十分に自覚する初老のひとりにちがいない。頚椎が一部石灰化したり、呼吸器系疾患で肺活量が常人の六割程度となるなどの不都合はどうとでもなれだが、文字をきちんと追えない目は難儀だしひどくなる物忘れは厄介だ。だからというのではないが、認知症に関わる話題は他人事でない。
  いまでこそ脳器質の後天的障害を認知症といい、その原因やら症状・分類・対処法などの研究が進むが名称こそ違え古くから身近にあった治癒不可能な障害だろう。

 ぼくの4人の祖父母に両親のうち5人は概ね矍鑠と生きたと思う。ただ、静かな語り口で学童期のぼくに優しく接してくれた父方の祖母だけは違った。いつのころからかちょっと変になり、つじつま合わぬおしゃべりをはじめた。子どもでも首をかしぐふるまいだったが祖母といる時間はそれでも気持ちが和み楽しかった。当時は現在とまるで違う大きな家族社会があり、病院を往来し介護体制に右往左往する実際はなかった。 (両親や叔父叔母たちはそれなりに大変だっただろうが…)。家族総出で年長者をいたわる平常の生活のなかに祖母はいたと思う。

 大森真喜乃が描く『おばあちゃん』も家庭に暖かいコミュニティが存在し「家族の絆」の言葉が実感できた時代に生きる。話は孫娘の一人語りで進む。くるくると、それはそれは働き者だった 82歳のおばあちゃんの天国までのおおむね一年の暮らし。たいそうなしっかり者で家人からはたよりにされ、なによりたくさんの人に好かれた。

 そんなおばあちゃんが石段から転げ落ちる。この頃からおばあちゃんは少しおかしくなる。埃だらけの釜を倉から探し出してご飯を炊こうとする。たらいをもちだして洗濯をはじめる。面食らったお父さんやお母さんはついついおばあちゃんを叱ったりなだめたり…。ここで、家族は普通に自然体で対応する。

 おばあちゃんのおかしな行動はそれでも止まらない。同じことを何度もくりかえし、ときにしょんぼりと肩を落とす。孫娘たちにまで「あなたがたは、どちらさまでしたっけ」と言い出してしまうのである。で、しだいに体力も衰えてひとりでは用も足せなくなる。

 そんなおばあちゃんをやわらかくくるむように日常をおくる家族の姿がとてもいい。症状の進むおばあちゃんを真ん中において家族は生活する。ゆったりとした時間が流れて関わる人々には屈託がない。孫娘が「あかちゃんみたいね。おむつもしてるし」と茶化しても笑いの渦に持ち込むのである。で、ある日、おばあちゃんの容態は急変し帰らぬ人に…。

 どうだろう。おばあちゃんの生涯は幸せであったといえないか。大森の描くイラストがふんわりと親しみやすく簡潔なテキストの明るさと同調して作品をぐんと豊かにする。

 人間は誰でも死を迎える。せいいっぱい生きて多少なりと敬われる“老人”として生きる。たとい終末のいっとき不都合な症状を患うことがあっても…、こんな生涯は喝采されていいと思う。周囲に連なる人々はどうだろうか。

 初老のぼくにはじわりとくる一作だが、子どもたちには作中のお父さんの弁を借用して「人間は齢とって死ぬときは赤ちゃんになるんだ。真白な心で天国に行くんだ」と語ることにしよう。

『おばあちゃん』(大森真喜乃/作、ほるぷ出版)

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