絵本・わたしの旅立ち
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色彩のないものもまたたのし

 『もりのなか』に出会って、救われたような思いがしたのは、まず、それまで身近に置いて何気なく毎日楽しんでいた「赤ちゃん絵本」が、あまりにも立派で、完璧だったからかも知れません。というのも個々の子どもの発達に応じた理想的な絵本といえるからでしょう。

 ブックスタートで保健所からもらったり、やや不都合な部分を排除したほんとうに優れた絵本ばかりになった「赤ちゃん絵本」。それを自由自在に選ぶのですから当然のことです。

 完全な配慮によって「赤ちゃん絵本」に取り巻かれている現代の赤ちゃんこそ幸せな人種と言いたいのです。

 ではなぜ「赤ちゃん絵本」だけ、こんなに突出しているのでしょう。普通、一般幼児にしても後期に入ると、ディズニーのアニメマンガは勿論、その内容も「おなら」が羅列して出してきたり、「白浪五人男」の型どおりのセリフが躊躇うことなく繰り返し重ねられ飛び出したりと、あきれかえる始末です。

 そんなハチャメチャとはまったく別に「赤ちゃん絵本」が、なぜ現代のようなステキなものになったのでしょう。

 それはまず「赤ちゃん学」が誰もが認めるように飛躍的に進んだこと。また、それらの「赤ちゃん学」者の人たちがこれまでと同じように、この新しい学問が単に乳幼児の心や体の発達、玩具の意味などにこだわるだけでなく、ひろく赤ちゃんとかかわりのある文化の問題にまで参加する意味を人びとに示してきました。そういう学問的広がりによってはじめて絵本そのものに参画できる新鮮な思いが、私たちのところまで押し寄せてきたのかも知れません。

 この事態に前号で書いたような、完璧な「赤ちゃん絵本」が完璧であればあるほど、優れた故に孤立するという不可解な現象が見られるようになりました。

 それは逆にいよいよ「赤ちゃん絵本」の固定化となり、少し年齢がはずれると「まったく別世界の絵本の花ざかり」という「赤ちゃん絵本」から他の発達の領域と殆ど関連しない独立した整形をされるということが少しずつわかってきたのです。

 そこへあらわれたのが「赤ちゃん絵本」の継続的発展を目指して「赤ちゃん絵本」とはまったく無縁の新しい世界の境地から発想し、堂々と出発した、例えばエッツの作品ということができるでしょう。

 これまでのような周到な用意で制作されたのとは違う、全く世界を異にするジャンルの出現でした。このジャンルは「赤ちゃん絵本」を直接継承するものではなく、一足飛びに幼児期向け、幼児期の中心に突入することでもありました。更に何より驚かせたのは「赤ちゃん絵本」を美しく、また端正に飾ってきた「色彩」が突如姿を消したことです。

 エッツをみて、はじめて「赤ちゃん絵本」にゆたかな色彩があったことを思い出したわけです。

 私たちの世界、生活している環境に、色彩が総て形を消すと言うことはあり得ません。宇宙だってすごい色彩が目を掩います。

 本来『もりのなか』に登場する人物や動物たちに色彩が存在したことは、いうまでもありません。

 ではなぜ『もりのなか』は先にも言ったとおり、当然描き出される世界である筈なのに、なぜ色彩だけが脱落したのでしょう。なぜ未完成の絵のような形をとつたのでしょう。

 疑問を感じないようなら、これはエッツだけでなく、バートンの『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』も同じくモノクロであるのは、どういうことでしょう。『うみのおばけオーリー』『ロビンフッドの歌』『やせたぶた』も総てモノクロ・・・。

 私たちはこれまで、これらの絵本が、たまたま色彩を必要としない内容だったと簡単に解説してきましたが、果たしてそんなことで完璧に説明できるものでしょうか。

 自分でも解答が出せなくなったわけですが、そんなことだけですませていいのか。厄介な問題に突き当たったものです。 

 実は、ここでこの時期の画家について仮説を持っているのです。仏像があらわれたのは、ブッダが死んでから何百年と言う時間。画家たちが描きあげようとした聖像はすべて原石のまま。加工しない金属でした。それくらい強固な確固たる映像を強く抱いていたのです。

 では何故、聖像に色彩が加えられ始めたのか。理由は簡単です。色彩によって飾られなければ満足できない欲求を大衆が持ちはじめたからです。この時期のモノクロ作家たちは、それほど画家としての高い自分を持っていたのでしょうか。


「絵本フォーラム」62号・2009.01.10


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