絵本・わたしの旅立ち
絵本・わたしの旅立ち

絵本・わたしの旅立ち

− 40 −
子どもたちとの、つき合い〈実技入門〉

 どれほどステキな絵本を択んでも、最後に直接子どもにどう手渡すかということが、絵本のいのちにかかわる大切なことであるのは当然です。

 伝え方がいい加減なために、せっかくの絵本は紙クズのようにならないのが、私たちの使命といっていいでしょう。

 だから常識にいって最も小さい子どもにとどけるときは、おかあさんのひざにのせて、しかも背中を左側の胸にぴったり密着させ子宮の時代から、いちばんなじんだ、おかあさんの声、それから心臓の正確な音を楽しむ、つまり生れたばかりの動物の親子のすがたそのままでなければならないでしょう。人間もやはり生物であるという重大さを気づかせてくれる姿、その懐かしい形そのままから始まるわけです。

 けれど当然のことながら、子どもたちが活発に成長し、家庭での個人の楽しみから便宜的な(本来の本の役割から離れた)いわゆる「読み聞かせ」を、それなりに、いわば舞台芸として成功させるためには、いくつかの配慮が必要であるようです。

 たとえば幼稚園や子ども会で行われている日常のカリキュラムやしきたりの展開でなくても、共に読み手と共に絵本とかかわる「特別の時間」であることを、聞き手・子どもたちに強く意識させ効果をあげなければなりません。

 たとえば司会をする人員にゆとりがあるようなら、その絵本についての前置きなどより、「読み手」の紹介だけはキチンとすべきで、読み聞かせのメカニズムを、はっきりさせたいのです。それは共に絵本を楽しむ組合せ、子どもたちにこれまで広く知っていようと、初会であろうと、

「この人と共にこれから絵本を」

 という構え方、期待の仕方が、ともすれば個々の存在が稀薄になる集団的「読み聞かせ」のマイナスを補ってほしいわけです。

 そして司会者は、そのへんで手を引いて、「語り手」を信頼すべきで、聞き手の承知している歌を歌わせたり、手遊びやゲームに脱線しないことが大切です。とにかく司会者は主人公でありませんので、受け手たちに、「今日は、どんな絵本?」という期待感程度で、そっと姿を消す——そういうけじめを忘れないようにしたいと思います。

 中には一方、勝れた語り手などが間違うように、

「今日は、××先生の面白い面白い読み聞かせですよ」などと先入観を与えるようなことがありますが、最も妨害がはなはだしい行いと気がつくべきです。

 絵本だってさまざまです。

 とりわけ集団相手の子どもたちは、受け方に個人差をもっていますから、「何だ司会の先生のいうようにはいつも面白くないじゃないか。このウソつきめ!」かえってダマされた不信感が湧くというものです。

 重ねて申しますが、司会者は渡し舟の船頭みたいで、ちゃんと受け手をまとめて乗船させ、途中、事故の起こらないように対岸につけ、むこう側の世界に子どもたちをとどけるのが役目ですから、対岸についたら、一同同じ方向に向って進むよう、ポンと背中をたたいて押しだし、急いで戻っては、次の客をまつ、という爽快ないさぎ良さを示してほしいものです。この件は、大村はまさんが学校における教員の仕事をみごとに説いたもので、私たちの示標すべきもので、拝借いたしました。

 また司会者について語り過ぎたと思いますが、語り手は、そういう司会者に応じるよう絵本の読み聞かせの演技をより慎重に考え、行動しなければならないのは当然です。

 その点では、会場での司会者と語り手との最初の出会いから子どもたちは、すべてを観察しているわけですから、この短い対面の成果を考えた行動、姿勢、視線、絵本の持ち方、読み聞かせの場所の択び方。その場所への動きなど、相当技術が必要ですが、その前に最も配慮しなければならないことは、司会者と語り手との人間関係について深い省察を、受け手に、どのように表現するか、の技術です。

 冒頭に申しましたように、集団への読み聞かせは、まさに舞台芸術ですから、文章ではなかなか伝えにくいので、このあとの微妙なことは、読者の皆さんと実際の立稽古をしたいと思っています。世の中には何と歩き方の本だってあるのですよ。(この項つづく)


「絵本フォーラム」74号・2011.01.10



前へ ☆ 次へ