たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第75号・2011.03.10
●●64

それなしに生きていけない、ないしょの関わり

『ないしょのおともだち』

 我意のままに突っ走る。自己処理できない感情を他人ばかりか我が子にまでぶつける。異様なクレーマーの台頭や児童虐待の頻発に誰も驚かなくなった。マスコミにおどる「孤立」「無縁」という社会。ぼくらは戦後を焼野原から出発し夢や希望を託して復興をめざした。家庭や社会、教育や経済はすっかり革袋を変えた。合理性を謳い競争を強いる経済システム偏重で高度経済成長を果したが、個性尊重やら自己確立を強く説かれたぼくらは人間を成長させたか。個性尊重を我意実現に自己確立を他者は知らんと勘違いしなかったか。自立することと孤立することはまったく違う。人はひとりで生きられないのだ。それぞれ相手の考えを互いに慮り思いやることで成立する社会、それを調整するのがコミュニケーション力だろう。で、力は幼児からゆっくりと育まれなければいけない。こんなことに思いをめぐらすのに、『ないしょのおともだち』はちょいといい。

 小学生のマリアは両親の気持のいくらかをちゃんと分かる。マリアの住む大きな家の隅っこの小さな家に住むネズミも父や母の気持を何となく読み取る。それぞれに妹弟がいて、学校へ通い、絵を描き、本を読み、数を数え、歌を唄う日常もうりふたつだ。

 ふたり ( ひとりと一匹 ) の出会いは、ある晩のことだ。夕飯のあとかたづけの際、フォークを落としたマリーは拾おうとして壁の小さな穴の先にネズミを見つける。ネズミも、同じようにスプーンを落としてそれを拾うところでマリーに気づく。何だか気になるけれど、たがいに一瞬目を合わせただけのはじめての出会い。マリーもネズミもこのことを誰にも喋らない。マリーは「ネズミはノミやバイキンだらけ」と、いわれていたし、ネズミも「ずるがしこくて意地悪な人間には近づくな」と、いわれていたからだ。次の日、マリーはわざとスプーンを落とし、同じころネズミもスプーンを落とす。手を振るふたりの胸は膨らみはじめる。こうなったら、ないしょにするしかないだろう。で、ないしょの関わりはぐーんと育ち、それなしにふたりは生きていけなくなる。

 そののち成長したふたりは家を離れた。会えなくなったふたりだが、やがてマリーは母になり、家族とともに大きな家に住む。ネズミも同じく母となり、家族とともに大きな家の隅にある小さな家に住む…、ははぁーん、なぁーんだと、世代を移した再現シーンが展開するではないか。マリーの娘マリアとネズミの娘ネズネズは、同じように毎朝、学校へ行き、絵を描き、本を読み、歌を唄う。あるばんマリアは本を落とし拾おうとして、ネズネズに気づき、ネズネズも落とした本を拾おうとしてマリアに気づく。それからの展開はもうお分かりのはずだ。

 メルヘンだから、もちろん現実離れしているが、なかなかすてきな話だろう。饒舌に奔らないドノフリオのテキストに、20世紀初期の画調で装うマクリントックの描出は大きく広がる画面や時系展開のコマ運び、対照する小さいネズミの世界を丁寧に描きこむ。佳作で秀作ではないか。

 人は誰かと関わりを持ち、関わる数を増やしながら生き抜いて社会を構成する。幼児の最初の関わりは母親だろうが、子どもたちは他者との関わりをしだいに増やして成長する。ときに、ないしょの関わりを持ったとしても…。

 ♪ないしょ ないしょ/ないしょの話は あのねのね/…/坊やのおねがい 聞いてよね♪…。子ども時代に祖母から聞いた結城よしをの詞は、やさしく柔らかくぼくの脳裏にいまなお残る。ないしょ話は、決して不埒な隠し事ではないのである。

『ないしょのおともだち 』
( ビバリー・ドノフリオ/文 バーバラ・マクリントック/絵 福本由美子/訳 ほるぷ出版 )

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