たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第79号・2011.11.10
●●68

怒られ役なんているはずがない。

おこだでませんように』

 怒られ役という役回りがあるようだ。プロ野球、かつての常勝巨人軍で川上監督はあの国民的大スター長島茂雄を怒られ役とする。実際チームメートで円陣など組むと、川上は長島をよくおこったという。「長島さんだっておこられる!」チームの面々は確かにひきしまり、その統率力で川上は名監督とされた。当の長島はどうであったか。無頓着ぶりが伝説となる陽性の人柄は怒られつづけてもめげない。まぁ、長島の耳は川上の言葉を右から左へ聞き流していたらしい。
   
 『おこだでませんように』の主人公「ぼく」も怒られ役だ。小学生の「ぼく」は家でも学校でも怒られてばかり。「また、妹、泣かして」「まだ、宿題してないの」はおかあちゃんの口癖。<妹のわがままに少し怒っただけなのに、妹と遊んでやったから時間がなかっただけなのに> こんな言い訳をするとおかあちゃんはもっと怒る。だから、黙って「ぼく」は横を向く。すると、また、怒る。
 
 学校でもそうだ。「ぼく」を仲間に入れない意地悪たちに対抗してキックにパンチをくりだす。そこに先生がやってきて「また、やったの!」と、「ぼく」だけが怒られる。<意地悪したのは誰なんや、先生は「暴力はいけません」というけれど、「ぼく」の心がもらったパンチは暴力ではないのか> 言い訳するのもいやだから、黙って横を向く。で、また、怒られる。怒られてばっかりの「ぼく」。
 

 ふたたび、川上監督と長島茂雄のはなし。スポーツ記事による伝聞にすぎないが、巨人軍退団後のしっくりこない二人の関係が取り沙汰される。長島は「怒られ役」にされたことを不愉快に思っていたのではないか。「あいつは打たれづよいからどんどん怒ってもいいんだ」という言辞は怒る側の論理にすぎない。漫才の「ぼけ」と「つっこみ」のような職業としての芸は世間に通用しない。
 
 やはり、主人公「ぼく」も、怒られてばっかりいるのはつらかった。仕事で忙しいおかあちゃんや先生にあれこれ心配させないように、怒られても我慢した。人一倍「ぼく」はやさしい少年だったのだ。誰だって、怒られるより褒められるほうがうれしいし、気分がよいに決まっている。
 だから「ぼく」は、本当は「ええこやねえ」と言われたかった。「ぼく」はどうしたら怒られないか。「ぼく」は悪い子なのか。…「ぼく」は煩悶するのである。大人であるぼくらの虚をつく「ぼく」の悩み。あぁ、子どもたちの心を知らんなぁ、と胸が締めつけられるではないか。
 

 で、「ぼく」は七月七日、七夕さまのお願いを短冊に書く。「ぼく」は自分にとって一番の願いを一生懸命考えた。で、短冊に書かれた「おこだでませんように」…。「ぼく」の願いをじっと見る先生。不思議なことに泣き出した先生は「ほんまにええおねがいやねえ」と「ぼく」を誉める。早速、七夕の願いがかなったではないか。 先生が誉めてくれた!  先生から電話を受けたおかあちゃんも「…おかあちゃんのたからものやで」と「ぼく」を抱きしめ、いつまでも抱っこする。

 怒るとは我慢できない気持を表す強い言葉だ。親や大人が子どもにそんな怒りを平常からどれほど持つだろうか。自身の不快や忙しさのあてこすりで安易に子どもを怒っていないか。迷惑を被るのは子どもたちだろう。発達段階の子どもたちの心に沈殿する痛みを考えることができるだろうか。子どもの一挙手一投足・言動の脈絡をしっかと捉えるなかで子どもたちと共同したいと、ぼくは思う。
  

 
傑作ストーリーは秀逸な絵と協調する。

 で、石井聖岳の描く子どもたちは素直なよろこび哀しみを全身にあふれさせて壮快に動く。その少年少女像は現在では刺激的な魅力を湛えて気持よい読後感を残す。

『おこだでませんように』(くすのきしげのり/作 石井聖岳/、小学館 )

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