えほん育児日記

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~絵本フォーラム第89号(2013年07.10)より~  ●1●

 

 一昨年の秋も深まったある日、事務局で藤井代表から紹介された2冊の本。
 『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子/著、中央公論新社)『流転の王妃 愛の書簡 愛新覚羅溥傑・浩』(福永嫮生/著、文藝春秋)
 そのときは、この本との出会いが愛新覚羅嫮生(福永嫮生)さんとのご縁や、このような原稿を書くことに繋がっていくとは全く思ってもいない私でした。

 溥傑一家の流転の歴史

 
嫮生さんの、母堂・嵯峨浩は、侯爵嵯峨家の実勝と尚子の長女として1914(大正3)年に生まれました。中国の清王朝の最後の皇帝、ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑に嫁いだその人です。
 それは日満親善の美名のもと日本の軍部が仕組んだ政略結婚でした。それにも関わらず、溥傑と浩はお見合い写真から互いに好印象をもち、お見合いの席では好意を抱き、結婚生活では尊敬と信頼と労わりを重ね、愛を深めていきます。
 やがて、長女・慧生さんと次女・嫮生さんが誕生します。学齢期になった慧生さんは浩の実家・嵯峨家で暮らし中国と日本とに別れての生活。しかしそんな穏やかな生活も長くは続かず、しだいに戦渦にまきこまれ流されていきます。
 大戦が終わると同時に苦難の日々が始まります。浩と次女・嫮生さんは、一年六ヶ月に及ぶ流転の日々を経てやっと日本に帰国します。
 溥傑は満州国皇帝・溥儀と共にソビエトの捕虜となり、その後中国政府に引き渡され管理所生活が始まります。

 一家が再会した時は、すでに終戦から十六年の歳月が経っていました。
 嵯峨家の令嬢として生まれ育った浩の流転の日々を支えたものは一体何だったのでしょうか。
 夫・溥傑への溢れる愛、そして日本に暮らす長女・慧生さんに会うまではという親子の絆。さらには、日本人としての誇りであったのかもしれません。
 浩が溥傑に嫁ぐ前に宮中に参内したおり、大正天皇妃(後の貞明皇后)が、「満州国の皇帝に仕えることは、わが国の陛下に仕えるのと同じことです。(中略)溥傑に仕え、日本の婦徳を大いに示すように……」(注1)と仰せになられたそうです。このお言葉や嵯峨家や浩の母の実家・浜口家での生活なども心の支えとなり、強くしなやかに流転の日々を乗り越えられたのでしょうか。

 中国と日本の友好を願い

 溥傑に嫁いだ浩の望郷を慰めてくれたものは、家の周りに茂る木々、見上げた空に月が懸かり、四季折々に咲く花々が在ったことではないでしょうか。
 そして、夫・溥傑との再会後、中国での日々を穏やかに過ごすことができたのも、それら自然の存在に目を向け、心を傾けた二人であったからでしょうか。
 木々や草花を愛でて、明るく誰にも優しく、そして中国の料理を学び中国の方々を自邸に招き、「中国の人」になろうとした浩の毎日の生活。
 溥傑はよく記者から「お二人の生活は」と質問されると「相依為命(相依って命を全うする)」と答えたそうです。
 満州国皇帝の兄・溥儀を支え続けた溥傑。その溥傑を支え続けた浩。中国と日本の友好を願い、

「からくにと やまとのくにが むすばれて 
 とわにさちあれ ちよにやちよに」

と詠んだ浩。
 長女・慧生さんは悲しくも若くして亡くなりますが、「平和な日本で平凡に生きる」ことを願った嫮生さんは1968(昭和43)年、福永健治氏と結婚しました。
 五人の子宝に恵まれ、須磨、そして今は西宮にお住まいです。

 春風のような微笑みと温かさ

 5月8日から20日まで芦屋市民センターで、溥傑一家の流転の歴史をたどる「『愛新覚羅溥傑・浩』流転の王妃・最後の皇弟」展が、福永嫮生さんから展示品の提供を受け開催されました。5月10日には嫮生さんが河内厚郎氏(神戸夙川学院大学教授)と対談、セミナーと映像鑑賞が同センターでありました。
 5月14日に嫮生さんからお話を伺う約束になっている私は、このセミナーに出席される嫮生さんをご自宅の最寄り駅までお迎えに上がりました。待ち合わせ時間より15分も早く来られた嫮生さんは柔らかな微笑みで私の緊張をほぐしてくださいました。
 心を解きほぐす春風のような人と言われた父・溥傑。情愛の深かった母・浩。その娘の嫮生さんも春風のような微笑みと温かさがあります。
 今年は日中平和友好条約が結ばれて35年になります。尖閣諸島の問題を始め、日中関係は緊迫の状況です。嫮生さんは過去の流転の日々を胸に、今の中国と日本の友好を願い溥傑と浩の思いを紡ぎます。

「わたくしは物欲ではなく、心の豊かさを第一にと考え、五人の子供を育てて参りました。誠実であること。心を尽くしておつき合いをすることの大切さを伝えながら育てて参りました。福永と二人で築いて参りました家庭は、それはそれは温かいものでございました。家族はお互いを助け合い、かばい合い、補い合って生きて参りました。(後略)」(注2)
「親が子に与えられるのは後ろ姿だけでございます。何かを期待したり、求めたりすることはございません。わたくしが父と母の後ろ姿から多くを学んだように、福永とわたくしの生きた後ろ姿から、生きることの意味を学んでほしゅうございます。親が子に残せるのはただそれだけでございます」(注3)

 私の緊張をほぐしてくださった嫮生さんの、優しい微笑みを思い出しながら、「子育て」「絵本」と記した質問のメモを携え、ご自宅に伺う日はもうすぐです。(ないとう・なおこ)

(注1)『流転の王妃の昭和史』(愛新覚羅浩/著、中央公論新社)p40(注2)『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子/著、中央公論新社)p416(注3)『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子/著、中央公論新社)p418

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