たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第90号・2013.09.10
●●79

はじめておにいちゃんになる。
その心情を語ることができるのだろうか。

おにいちゃんになるひ』

 少子時代の現在、孫たちの実際は、ぼくら世代と大きく異なる。
 近郊に住む長女の一男は、中学1年生。それなりにのびのび育つが、一人っ子育ちの我意強し。目下は多機能携帯電話(スマホ)を買ってくれと毎日のように母親に迫る。兄弟はなく近隣にも子どもが少ない。だから、同世代の友人はサッカー少年団やテニス部入部で求めなければならない。兄弟がいればと、彼も思ったことがあるのではないか。彼を不憫と思うのは世代の違いからかもしれない。首都圏の多くの子どもは似たり寄ったりの環境にある。
 在英の長男には一男一女あり。居住するロンドン・グリニッジは世界遺産の街だ。子どもが自然に触れる場所には事欠かない。幼児期の長男はちびっこギャングそのもので外で弾けるばかりでなく、部屋中のモノまでひっかきまわした。爺のぼくが叱っても涙もみせず口を真一文字にして非を認めない。そんな行状が日常の振る舞いで息子夫婦はとがめない。だから、長男はロンドンで許されるのに、なぜ、日本の爺は叱りつけるのかと抗議したのにちがいない。
 そんな長男がおにいちゃんになる。妹が生まれたのだ。
 その半年前から長男は両親から母親のおなかの変化について何度も語り聞かされた。「あかちゃんが生れるよ」。語りかけには「おにいちゃんになるんだよ」の言葉が加わる。
 戦時戦後に6人兄弟で育ったぼくに一対一対応のような両親からの度重なる語りかけがあったかどうか、記憶は薄い。だから、両親からの度重なる語りかけは長男の心にどのように響いていたのか、生まれ来る弟妹の存在をどうイメージしたのか。ぼんやりとしか描けないぼくは、つくづくと思案するのである。
 長男は少しずつ兄になる。何か不思議ですごく大切なあかちゃん、あやすように抱っこしたり、添い寝したり。彼は自分より弱い・小さな存在を愛しい妹と知ったのだろうか。
 その長男も昨年秋から小学生となり妹も3歳に。子どもの成長は早い。環境に恵まれて大胆に動き跳ねる兄を、妹はしきりとあと追いする。ときに兄の妹への気配りが見える。ちょいとうれしくなる瞬間である。
 『おにいちゃんになるひ』も元気な男児スペンサーがあかちゃん誕生の特別な日を迎えるお話である。林間に住むスペンサーは両親と祖母(?)との4人暮らし。野原や山が遊び場で四肢を弾けさせる奔放な少年だ。ハチの群れも平気の平左で、クマやウマやキリンとも友だちだ。走りも木登りも得意で、大声だって林間に轟かせる愉快な男の子。
 ある日、パパとママがふたりでどこかへ出かけて帰らない。両親はどこへ行ったのか、なぜに出かけたのか、テキストは何も語らない。
 両親留守中のスペンサーはいつも通り、動物たちと快活に野に興じる。数日後、パパとママが帰ってきた。動物たちと両親を迎えたスペンサーの目に飛び込んだのはママに抱かれたあかちゃんの姿……。そんな出来事に遭遇して「びっくりするほどやさしくて、おひさまみたいにいいきぶん」になるスペンサー。その日はスペンサーにとっておにいちゃんになる特別の日となったのである。
 だが、絵本の言葉は特別の日のスペンサーの心情をただの一字も語らない。
 おしつけがましく無理やり子どもの心情をこうであれと代弁するこの種の絵本が数多いなか、スペンサーの無言が持つ説得力は圧倒的ではないか。スペンサーの心情を誰一人適切に語ることはできない、当人だってよくわからないのではないかと、ぼくは思うから…。
 テキストは語らないが、イラストが風趣あふれる舞台にやわらかい動物像や家族の幸福感をほのぼのと描きだしている。描かれたスペンサーの表情や姿が何事かを語っているのではないか。読者の思いは決してひとつではないと感じながら…。


                『おにいちゃんになるひの』
   (ローラ・M・シェーファー 作/ジェシカ・ミザーヴ 絵/垣内磯子 訳/フレーベル館)
 

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