たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第91号・2013.11.10
●●80

ともだちって、どんな人物を指すのだろうか

ともだち』

 人と人の関わるなかで、ともだちとはどんな人物を指すのだろう。言葉だけを都合よく使っていないだろうか。『大辞泉』はともだちの語釈を「互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。…」とするが、何だかしっくりこない。
 どんな人物がともだちか、「ともだちって そばにいないときにも いま どうしているかなって おもいだすひと」などと具体的に語っている絵本がある。谷川俊太郎がともだちの語釈を詩文で語り、その語釈を和田誠がふんわり偲ばせる特異のイラストで描いた『ともだち』だ。
 
 たとえば、Kのこと。鼻たれ小僧の学童期からのぼくの幼馴染で野や川に興じた仲だ。互いに親兄弟から暮らし向きまで知悉し中学まで机を並べる。以来五十八年、遠くに在って容易には会えない。けれどなぜか、病気などしてないだろうなとふと気になる存在である。季節の音信を交わし互いの健在をたしかめつづける。今Kは、物理化学・高分子化学者としてよく知られる。「そばにいないときにも いまどうしているかなって おもいだす」ともだちである。

 また、学生時代の四年間、ぼくの周囲になんだかんだといつもいたYのはなし。キャンパスだけのことでない。若気無分別の私生活現場までしばしば共にしたYは兄弟以上の交わり。Yの存在は何であったか。善くも悪くもぼくの青春期を画期する時間を共有したのはまちがいない。今Yは信州に在り、老舗水引工芸製造企業の四代目社長だ。利害一切なし。腹蔵なく話せるYは絵本『ともだち』によると「おかあさんや おとうさんにも いえないことを そうだんできる」ともだちとなる。

 新宿界隈で談論風発呑み交し文学・文筆のありようを肉肌で語ってくれた某文学賞受賞作家NT氏、歴史認識の捉え方を学んだ日本近代史家の故人KK氏、なにより歴史を学ぶことの楽しさを根気よく教えてくれた教育史家I氏らに、ぼくは敬意の心情を強く寄せるが、彼らも「としが ちがってても ともだちは ともだち」(『ともだち』)なのだ。

 絵本は、ともだちってこんな人、ともだちならこうしようよ、ひとりではできないこともともだちとならきっとできる、と語りかける。その一行一行になるほどとうなづいたり、ウーンとうなって少しちがうと思ったり…。詩文とイラストにじっと目をこらして感じる時間を、ぼくはしみじみありがたいと思う。
 約束破りの心情を汲み取ろうとする<どんなきもちかな>というくくり、けんかの義を語る<けんか>のくくりもいい。で、絵本構成は、「すきなものが ちがっても/ことばが つうじなくても」<ともだちは ともだち>と展開してイラストから写真構成に一転する。戦禍で傷ついたのだろうか、少年の写真が紹介される。また、幼児がひとり砂漠の難民キャンプでしゃがみこんでいる。<あったことが なくても このこは ともだち>と絵本は宣し、これらともだちに何ができるかを問うのである。なぜなら「だれだって ひとりぼっちでは いきてゆけない」(『ともだち』)のだからと…。

 友人知己というではないか。友人・ともだちとは何かと考えることはあまりない。ときに考えてみるのはどうだろうか。損得利害にまぶされて勝手にともだち扱いしたりされたりしていないか。身近にいるすばらしいともだちの存在に気づいているか。
 ともだちについてしみじみと想いを巡らせてみようと、ぼくも思う。

       『ともだち』(谷川俊太郎/文、和田誠/絵、玉川大学出版部)

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