たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第94号・2014.05.10
●●83

人間も犬も命の大切さは同じ。描かれた東日本大震災。

『ぼくは海になった』

  3・11とは何であったか。被災地や被災した人々の実際を現地で追体験した人々なら知見を重ねて実相にいくらかなりと迫ることができるだろう。しかし、大震災直後しばらくの大報道だけに触れただけではどうだろうか。現実に、多くの人々の記憶はじわりと薄れはじめているように思う。

 足踏みする被災地復興。人災ともいえる福島原発被災地の多くで、今なお足を踏み入れることすらできない…。3年という年月はそんなに長いか。膨大で雑多な情報にふりまわされる現代、人びとの関心は移り気だ。だけれど、ぼくらにとって3・11は決して風化させるわけにはいかない出来事ではなかったのか。  

 被災した人々が義憤する政策がつづく。 人手不足を来し復興事業の停滞を誘う公共事業の全国展開。 3・11後の原発ゼロ方針を捨て去り、再稼働ばかりか新増設まで容認するエネルギー基本計画の閣議決定…。 民主主義の多数決論理を都合よくふりまわす政権を前に、国会は国民のために機能しない。国政ばかりではない。人々への情報発信を通じて問題提起や適切な批判を担うはずのメディアも弱腰で、その責任を果たしていない。かくして、3・11の風化はどんどん進む。

  ぼくらにできることは何か。小さなことでもいい。できる範囲で被災地のことを忘れずに関心を持ちつづけること、小さな被災の知見でも伝えつづることだろうか。そこに、3・11をモチーフとする文学創造に挑む作家たちがいる。アスリートたちはスポーツを通じて被災地の人々と交流する。田畑や家事のボランティアにはげむ人々もいる。

  絵本作家うさは、大震災後すぐに東北に向かう。ボランティア活動をつづけるなかで、うさは「命とは何か」と自らを揺すぶられる。尊い・はかない・すごい・むごい・すばらしい。どんな形容をしても捉えることのできない命、何か神々しい存在。だから、命に軽重のないこと、犬や猫の命だって同じ大切な命だと知る。

 絵本『ぼくは海になった』は実際に大津波におそわれて母と愛犬を失った家族を題材にする。主人公はダックスフンドのチョビ。東北ではまだ寒い3月、突然おそった大地震は家屋をはげしく揺らし、戸外に飛び出した母と娘とチョビを津波で容赦なくさらう。こんなシーンから物語ははじまる。津波はまもなく母とチョビを娘たえから引き裂いてしまう。海に漂流するチョビは何とかしてたえと連絡をとろうと真暗な海に飛び込んでいく。

 浮流するおびただしい流木に家屋や車。そして陸の惨状はチョビにどう映ったか。ともかくもチョビは家の跡地で母とチョビを必死に探すたえに出会う。ここで話は飛躍する。たえはまったくチョビに気づかないのだ。作者うさがリアルに描くチョビは母と生命をともにした。だから、チョビのたましいの化身とでもいった存在が津波災害の現場や、たえや弟をついには母の遺体に引き合わせるという物語展開となる。作者は惨状のおどろおどろしさや暗さを極力抑制する。暖色で描かれたイラスト、やわらかい描線は親しみやすい。大震災の実相を広く家庭人や子どもたちにまで伝えたい想いからだろうか。飛躍する物語は少し気になるが、チョビという小型犬の小さな命も大切さは同じではないかと語りせまる作者の想いはしっかりと受け止めたいと思う。(おび・ただす)

『ぼくは海になった|東日本大震災で消えた小さな命の物語|』
(うさ/作・絵、くもん出版 )

 

前へ次へ  第1回へ