絵本のちから 過本の可能性

「絵本フォーラム」95号・2014.07.10

石井麻木写真展
—— 3・11からの手紙 ——

NU茶屋町4F特設会場

報告・舛谷 裕子

石井麻木写真展  復旧復興が遅々として進まない被災地の状況に心苦しく、何も出来ない自分に情けなさを感じていました。またドイツなどでは原子炉の廃炉が進められているのに日本は原発を輸出しようとしています。さらに日本の形がいいように変わると信じていたのに特定秘密保護法案も可決され、直ぐ先の日本の形が容易に想像できず得体の知れない恐怖がじわじわと押し寄せて来ているように感じていました。

 「石井麻木写真展|3・11からの手紙」が開催されました。震災当初から現在までの3年間を写真と言葉で伝えています。
 石井氏は震災直後から被災地入りを試みようと手を尽くしたそうですが「若い女の子が行く所じゃない」と断られ続け、やっと福島入り出来たのが3週間後だったそうです。  支援物資を持てるだけ持って「とにかく行かなきゃ」という気持ちだったとのこと……。写真家としていつもカメラは持ち歩いているが「カメラは武器になる」と隠していた。何もかも失い、また住める家があっても避難所で過ごしている人にカメラを向けることは暴力≠ノなると感じた。しかし、「記録として撮ってほしい」「何もなくなってしまって……。これからの自分たちのために最初の一枚として撮ってほしい」との言葉に写真を撮り始めた。東京と被災地を往復する日々であったが、ある月命日に「一人でいるのは寂しい」との声を聞き、それ以来毎月11日に福島に通っている。
 3年が経ち、忘れられないためには伝えていくことも大切だと考えて今回の開催となったそうです。
 一枚一枚の写真から温かな感情が流れているようで、そしてその言葉は家族の様子でも伝えるかのようで偽善や欺瞞からはほど遠く、慈しみに満ちあふれていました。漠然とした怒りや自分自身の無能さに辟易とし縮こまっていた心が涙とともに緩んでいくのが分かりました。気持ちがどんどん素直になっていくようでした。写真の中の一人ひとりの満身の笑顔から、避難所での暮らしの風景から、ありえないことなのにその中に私自身の母や祖母が写っていそうな錯覚に陥りました。
 がんばっている そう書かれた言葉に心がひろがっていくようでした。その場所で同じ空気を吸い、同じものを食べ、同じように泣いたり笑ったりされているからこそ出た言葉なのだと痛感しました。手をこまねいているだけの私ですががんばろう≠ナはなくがんばっている≠フ言葉に救われた気がします。
石井麻木さん   石井氏は写真は写心≠ニいわれます。「自分が笑いながら撮った写真と、泣きながら撮った写真がわかるといわれる」とのこと。なるほど、あの満身の笑顔は石井氏との心の交流そのものなのだと感じました。また、たくさんの写真のなかに風景画かと見紛う写真も何葉かありました。とても被災地だとは思えないような美しい風景でした。「いろいろ考えるより、感覚で撮っている」とのこと……。そのときはどんな表情で撮られているのだろうと思いました。
 石井氏のお母様は絵本作家の伊勢英子氏。石井氏も幼い頃はよく絵を描かれており「小さい頃から絵を描いている母の後ろ姿を見続けてきた。やはり母の影響を受けていると思う」。表現の手法が違っていても根底にある思いやまなざしは同じなのだと感じました。伊勢氏もまた、阪神淡路大震災の2ヶ月後に神戸に来られています。
 《忘れてはいけない風景は 描けないのではなくて/描いてはいけないのかもしれない/描くことで 安心してしまうから/目と手が記憶してしまったあと/どこかにしまい忘れることもあるから》(『1000の風 1000のチェロ』あとがきより)
 自分自身の心に蓋をしてしまおうとしていた私ですが、今の日本を生きる大人≠ニして責任を持って世の中をみつめ、出来ることから行動していこうと改めて思いました。今この時に、「この写真展」に出会えたことに感謝いたします。  被災地での活動とカンボジアでの地雷原を綿畑にする活動は、石井氏自身の2大ライフワークとして生きていく上で大きな柱となっているそうです。益々のご活躍をお祈りいたします。
(ますたに・ゆうこ)


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