今、この国がおかれている状況は…。
 皆さん、こんにちは。
 最近、活字離れ、子どもたちが本を読まなくなってしまったということが盛んに言われます。皆さんも読み語りという活動を通して、感じておられるところがあると思います。このことは、ただ単に活字を読まなくなった、本を読めなくなってしまったということ以上に、多くの問題を含んでいます。本日は最初に、一つの事例を挙げ、そのことについて話してみたいと思います。
 これは新聞・テレビなどで大きく取り上げられましたから、ご存じの方も多いかと思います。自民党の政調会長、麻生太郎氏が今年5月31日に東京大学で講演会を行ったとき、「日本の植民地支配下での朝鮮人の創氏改名は、朝鮮の人々が望んだからやったのだ」というような発言をしました。「朝鮮の人たちが仕事がしにくかった。だから名字をくれと言ったのがそもそもの始まりだ」と。いわゆる、政治家の「失言」ですね。麻生氏はこの発言について、当然ながら、韓国政府から謝罪を求められました。
 その後、朝日新聞が「麻生氏はソウル大学で学生たちと話し合ってはどうか」ということを社説に書きました。それをきっかけに、ソウル大学から「ぜひ来てください。討論会をやりましょう」という招待状が麻生氏のもとに届いたそうです。
 少なくとも小学校、中学校において歴史を習ってきた人であるならば、この麻生氏の発言はとんでもないということが理解できます。朝鮮半島が分断され、南北両国が成立したのは1948(昭和23)年、ちょうど私が生まれた年のことです。ご存じのように、日本の敗戦は1945(昭和20)年8月15日です。それは同時に、朝鮮半島にとって解放の日でした。それを境に、日本と朝鮮半島の運命は大きく変わっていきます。
 1948年、北は金日成、南は季承晩という政権が立ちました。この政権の後ろ盾になったのが、北がソ連であり、南がアメリカであったわけです。そのとき、日本は敗戦国としてアメリカの占領下にありました。その占領下における日本の様子については、ジョン・W・ダワーという歴史家が、『敗北を抱きしめて(上下)』(岩波書店)というすばらしい本を出しています。朝鮮半島は二つに分断され、北朝鮮と南朝鮮に分かれました。そして、その背後にはソ連とアメリカがつきました。そのとき、日本はアメリカの占領下に入っていました。そういう歴史的な経緯があるわけです。
 ここにもう一つ、歴史的な事実があります。敗戦した日本を、この山形辺りを境に北と南に分断して、ソ連とアメリカで分けようという政策があったのです。ソ連とアメリカの間で、そのような交渉をしていたということが言われています。
 さかのぼりまして、日本が朝鮮を植民地支配した36年間、「朝鮮の人たちも日本国民と同じである」という皇民化政策が実施されました。その中で、朝鮮の人たちは自らの名前を変えられてしまったのです。それが創氏改名の歴史的な事実です。それから日本は、朝鮮の学校において朝鮮語による教育を禁じました。民族からその母国語を奪うということは、その民族を根本から否定していることです。
 このような歴史がありながら、麻生氏の発言のようなことが出てくると、朝鮮や韓国に住む人たちは、日本というのは大変な国だなと思うことでしょう。
 これは朝日新聞が言っているように、「想像力の貧しさ」という生やさしい表現で済むものではありません。歴史的事実をきちんと認識していない人間の言う言葉です。吉田茂の孫だか何だか知りませんが、そのことしか取り柄のないような政治家がこの国を動かしているのです。そういうこの国の実状について、子育てをしている親は、子どもにどう伝えることができるのか。どんな言葉でそういうことを語るのか。そういうことに対して、私は大変な危惧を持ちます。
私たちにできること
 なぜ最初にこのような話をしているかといいますと、歴史的な事実を正しく認識し、それについて自分で考えることのできる子どもに育てるためには、やはり小さいころから読書する力をつけておかなければいけないということなのです。大きくなって突然読書に目覚める人もいます。しかし、それは極めて少ない比率です。小さなころから絵本に親しんでいてこそ、長じてどんどん本が読めるようになるのです。
 これはただ単にハードである本を開いて、活字が読めるようになるということだけではありません。本が読めるということは、自らがどう生きていかなければいけないのかということを考える能力につながります。そういうものを小さな子どもにつけることこそが、親であり、今を生きている大人たちの務めではないかと思っています。麻生氏の発言に対して反対・賛成という政治的な思想は別にして、人間が人間であり得るための「ものを考える力」は、ある日突然身につくものではないということを申し上げたいのです。
 今、日本全国において、読み語り、読み聞かせ、ストーリーテリング、ブックトーキング、ブックアニマシオン、エプロントーキングなど、絵本を楽しみ、その楽しさを子どもたちに伝える活動がたくさん展開されています。そういう活動を通して、できるだけ多くの子どもたちに、本を読むことのうれしさ、喜び、楽しさを伝え、物語の世界に入り込むことのワクワク感、ハラハラ感、ドキドキ感という感情体験をいっぱい持ってもらいたいと思っています。そして、子どもたちが本に親しめる環境をつくることが、今を生きる我々の務めだろうと思っています。
子育てが楽しめない社会
 さらに私が危惧していることは、現在、子育てをする環境が極めて厳しくなってきているということです。先日、新聞で、平成14年に日本で産まれた子どもの数は約115万人、統計を取り始めて最低だったと報じられていました。私が生まれた1948(昭和23)年は、ベビーブームの時代でした。昭和22年から24年というのは、子どもが最もたくさん産まれた時代です。
 合計特殊出生率というものがあります。皆さんご存じだと思いますが、復習のために言ってみますと、15歳から49歳までの全女性を対象に、年齢ごとに子どもの出生数を女子人口で割った出生率を合計したものです。簡単に言うと、1人の女性が一生涯に平均何人の子どもを産むかという数値です。人口を増減なしで維持するためには、2.08が必要とされています。去年、日本の合計特殊出生率は、1.32で、去年から0.01ダウンしました。山形は1.54です。福岡は1.29でした。日本では沖縄が一番高いのですが、それでも1.76しかありません。
 「1.57ショック」という言葉を覚えておられる方もいらっしゃるかもしれませんが、1966(昭和41)年、ちょうど丙午のときに、この合計特殊出生率が1.58という過去最低を記録しました。1989(平成元)年に、それを下回る1.57という数字が記録され、「1.57ショック」として、社会に大変な少子化の問題を投げかけました。しかし、その後も低下傾向に歯止めがかからず、現在までずっと下降を続けています。
 これは人口問題研究所など、いろいろなところが統計で出しているのですが、平成8年、合計特殊出生率が1.43になったときの調査では、このままの形で推移していくのならば、1200年後には、日本には人が1人もいなくなる計算になるそうです。最初に世界から国がなくなるのはイタリアで、700年ぐらいでなくなってしまうということです。
 先ほど申しましたように、日本の昨年の合計特殊出生率は1.32でした。つまり、1人の女性が一生涯に1.32人しか子どもを産まないということです。もちろん、1.32人という子どもは産めませんから、平均すると1人しか産まない人が多いということですね。人口を維持するためには、一夫婦につき、約2人の子どもを産むことが必要です。国が成熟してきたら、どんどん人口が減っていくのは、世界各国の常です。世界の先進国や成熟国を見てみると、軒並み下がっています。ただ、増えている国もあります。スウェーデンやフィンランドなど、北欧の国では、出生率が若干プラスに転じています。しかし、世界的に見るとどんどん落ちてきています。
 このままいくと、日本社会はあと1200年でなくなるわけです。我々の一生は、長い人は120歳まで生きるかもしれませんが、大体80〜90歳です。「そんな先のことなんかどうでもいいや」と考えながら、子育てしている人はいらっしゃらないでしょう。また、「日本がなくなってしまうと困る。私はがんばって5人産もう」と考える人もいらっしゃいません。子どもを産んで育てることがうれしい、楽しいと感じられるような社会ができない限り、いくら夜間保育所をつくったところで、いくら男の人に育児休暇を与えたところで、改善されることはないでしょう。そこには国自体が抱える大きな問題が横たわっているのです。
 しかし、政府はそういうことを言っていません。不妊治療の問題がどうしたとか、保育所は夜間も営業してくださいとか、男性にも育児休暇を与えましょう、児童手当も出しましょうという表面的な政策を打ち出してばかりいます。こういう政策では、少子化に歯止めがかかることはとうてい望めません。ごく当たり前のことです。
母国語を奪われた子どもたち
 そういう中で子育てをするのは、並大抵なことではありません。現在、子育ての状況は、我々が想像する以上に恐るべき実態にあります。少子化、核家族化などの社会状況の変化によって、今、子育てにはいくつもの危うさが表れてきているのです。
 例えば、2歳の子どもを金髪にして、ピアスをはめて喜んでいるお母さんがいらっしゃいます。お母さんやお父さんだけを責めているのではないということはあらかじめ申し上げておきますが、そういう親がいます。
 それから、毎日新聞で「子育て親育て」という育児相談のコーナーを担当している大日向雅美さん(恵泉女学園大学教授)という人が書いていたのですが、ある保健所で3カ月健診を行ったときのことです。1人のお母さんが子どもを連れてこなかったそうです。「どうして、あなたは子どもを連れてこなかったの」と聞いたら、「だって、通知書の“持参するもの”の欄に、赤ちゃんと書いていなかったから」と答えたそうです(笑)。これは大変有名になった話です。大日向雅美さんはやさしい先生ですから、「関西方面で起こったこと」と書いています。しかし、これに類することは日本全国で起こっています。九州でも、全く同じような話を聞いたことがあります。
 この話には続きがあります。そのお母さんは保健所に食ってかかったそうです。「あなたたちは、どうしてこんなに不親切なのだ。“持参するもの”の欄に、ほ乳瓶、母子手帳、おむつなどは書いてある。だったら、なぜ赤ちゃんも書かないのだ」。さすがに保健所は困ったそうです。書くべきか、書かざるべきか。書くべきではないだろう。だったら、どうして知らせよう。結論しては、通知書の最後のところに「気をつけて赤ちゃんをお連れください」と書いたそうです。そういうお母さんの実態があります。
 もう一つ恐ろしいことが、現在の社会の中で起こり始めています。これはあと数年経てば、大きな社会問題として顕在化してくるでしょう。それは、私たちの母国語である日本語を全く使わない子育てが氾濫しているということです。例えば、英語のみで育てているというお母さんがすごい勢いで増えてきているのです。もし大げさだと思われるなら、パソコンで「英語で子育て」と打ち込んで検索してみてください。おびただしい数のヒットがあるはずです。
 子どもにとって最も大切な時期に、日本語を全く使わないのです。バイリンガル、あるいはトリリンガルにするために、起きているときには英語のビデオを見せ、寝るときには英語のカセットをかけておく。これは実話ですが、我々のスタッフがそういう家庭に行ったら、2歳の子どもが全く日本語を話せなかったそうです。「What is this?」と言います。そのような子育てが、ここ数年の間に急激に増え、母国語を奪われた子どもたちがびっくりするほどたくさん現れてきました。
 産まれたばかりの小さな子どもたちにとって、親の語りかけがとても大切なことは、皆さんご存じだと思います。それは、ただ単に言葉を覚えることではありません。人間と人間との相互交流の中で心をはぐくんでいるのです。その大切な時間を欠落させて育ってくる子どもたちが増えてきています。その弊害が、この日本の社会にこれからどんどん出てくるでしょう。
 そういうお母さんたちはこう言います。「国際人に育てたい」「ネイティブな英語を話せれば、国際人になれる」「ネイティブに育てるには、産まれてすぐ英語に触れさせなければだめだ」「日本語なんて、日本人なのだからそのうち勝手に覚えるだろう」。そこには根本的な誤りがあります。日本人の子どもを本当にネイティブに育てるなら、アメリカに里子に出せばいいのです。もう少し正確な英語を身につけさせたいならば、イギリスに里子に出せばいいのです。そうしたら確かにそうなります。しかし、日本に産まれて日本で育つ子どもたちが、心を育てる最も大切な時期に母語から外されて育てられるのは、危険きわまりないことです。しかし、そのことについて、そういうお母さんたちは理解しません。これは恐ろしいことだと思います。
 ネイティブに英語を話せるのが立派なのではありません。自分の考え、意見、伝えたいことを、たとえ訛りがあっても、きちんと話せることのほうがはるかに立派なのです。普通の人が普通に考えれば、多分、そういう答えが出てくるでしょう。しかし、多くのお母さんが今、母国の文化を受け入れることなく、ただ自分の子どもをネイティブにしたいと思っていらっしゃるのです。幼い子どもたちの脳は柔軟ですから、英語漬けの毎日を送っていれば、自然に英語が話せるようになります。しかし、それはいつか頭の中から抜け落ち、話せなくなってしまうでしょう。それを「わぁ、うちの子、英語が話せるようになった」と錯覚しながら、毎日毎日、カセットを回して、ビデオを見せつけているのです。これは、明らかに虐待ですよね。
目に見えない虐待
 現在、日本において、そういう虐待の例は数え上げればきりがありません。叩いて傷つける、ご飯を食べさせないで死なせてしまう、そういう目に見える虐待はすぐに顕在化します。しかし、目に見えない虐待、子どもたちの心に与える虐待はどうでしょう。そういうものに気づかないお母さん、お父さんが増えているのです。「うちは愛情あふれる子育てをしてあげるんだ。将来、国際人として通用するよう、小さいころから英語を教えてあげるんだ」ということで、英語のビデオを買い込み、カセットを買い込み、一生懸命子どもに見せたり聞かせたりしています。
 やがてどこかで、その子どもは壊れてしまうでしょう。そのことの怖さを、そういうお母さん、お父さんに早く知っていただきたいのです。ですから、商売だと言われるかもしれませんが、私たちは絵本を読むことの大切さを訴えています。そして、それよりも大切なことは、お母さん、お父さんが抱きしめてあげて、語りかけてあげることなのだと訴えるのですが、そちらにはまった人たちはもう耳を貸しません。自らの思い込んだ“愛情あふれる子育て”に一生懸命です。
 こういうことは日本全国に広がっています。皆さんのやっておられるような活動を通して、「絵本を読んだほうがいいんだよ」「うんと語りかけるほうがいいんだよ」ということを、そういう若いお母さん方にもっと知っていただくことができれば、子どもたちは助かっていくと思います。
失われた「時間」「空間」「仲間」そして「手間」
 子どもが育っていく中で、つまり、子どもが家庭や学校の中でいろいろな知識を学び、今の社会に適応できるような知性や能力を身につけていくことを、「社会化」と言います。この社会化の中で、三つの“間”が奪われたということが、10年以上前から言われています。それは「時間」「空間」「仲間」です。そして、このごろはもう一つ、大切な“間”が奪われてしまったと言われます。それは「手間」ということです。
 「時間」「空間」「仲間」、これはよくわかります。子どもが遊ぶ時間がなくなってしまった。遊ぶ場所がなくなってしまった。遊ぶ仲間がいなくなってしまった。もう一つ、今の子育てに欠けてしまったのが「手間」だと言われています。「手間をかける」。もう少し古い言葉で言えば、「手塩にかける」です。今、若いお母さんに「手塩をかけて育てなさい」と言ったら、「おにぎりをにぎるのですか」と言われます。「手塩にかける」を、おにぎりと連想するのは、まだ生活のにおいがあっていいのではないかと思いますが、今の若い人にとっては、「手塩」という言葉は死語です。
 皆さん、私が「シゴ」と言ったら、頭の中でその発音を変換して「死語」と浮かんでいますね。これ以外に変換された方はいらっしゃらないと思います。若い人たちはどのように変換するか。一番多いのは「私語」です。2番目は、「死後」です。それから、「四語」。これはすでに、想像力の貧困というような問題ではありません。「手塩にかける」とは、自ら骨惜しみなく、一生懸命に育てるという意味です。しかし、もはや通じません。「私語」「死後」「四語」と変換してしまう。そこまで若い人たちが言葉に親しむことがなくなってしまっているのです。恐ろしいことだとお思いになりませんか。
 その四つの“間”というものがなくなってしまったということは、どういうことでしょう。1950年代の半ばから、この国は経済成長を始め、人口の移動が急激に起こりました。それはこの国の根幹的な政策でした。国として、「みんな、お金持ちになって豊かになろう」という経済政策をとったのです。お金持ちになって、欲しいものが買えて、食べたいものが食べられるという世の中は、悪い世の中ではありません。そのこと自体が悪いのではありませんが、そういう政策をどんどん推し進めたことによって、一つ一つの家庭から、子どもを育てるという力が失われてしまったのです。私が育った時代には、家庭はまだ生産の場所でした。みんなが集まって、ものをつくったり、あるいはものを売ったり、生業は様々であったとしても、家庭の中で生産をしていました。そして、その中で濃密な親子の関係、地域の関係がつくられていたのです。しかし、高度経済成長が進んでいくにつれ、一つ一つの家庭は消費の単位に変質してしまいました。濃密な人間関係を希薄にしてしまい、与えられるものを消費しているだけです。それは何も形のあるものだけではなく、情報も含めて、消費の単位になってしまいました。

次へつづく