たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第34号・2004.05.10
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野の草のしたたかさは生きる力に繋がるか

『たんぽぽ』

写真  春から初夏の風情。今年は何時になく永く桜を愉しめた。暖と寒が交互に訪れ蕾を膨らませたとみると翌日は硬く窄む。開花を迎えても、“ひらいて・むすんで・また、ひらいて・ むすんで…”の現象が続いたのである。桜が散ったのちは野草が多彩な花々を披露する地面 がぼくの目を誘う。ジシバリ・キュウリグサ・ハコベにタンポポ・ノジスミレ等など、もうしばらくするとレンゲソウが輝くはずだ。かつては見落としていた小さな野草につつましくも豊かな花弁が息づいているのに気づくようになった。
 こんな愉しみも早朝散歩を日常化したからだ。6、7年前から気管支に持病を持ち常人の半量しか肺活量がないために息苦しさに悩まされる。持病を言い訳に怠け癖を着けたら体重計の目盛りは鰻上り。これはまずいと一念発起して逆療法も良かろうと昨夏から愛犬を供に早朝散歩に挑んだ。桜や椎・樫・白蓮などの樹木の茂る緑道公園が散歩の舞台。この緑道を1・5キロほど歩き抜け水田の畦道歩行を1キロと続ける。最後は二段歩行で階段 61段を大股で上り切り住宅街へ戻る。土・日は朝夕二度歩く。八ヶ月続けた散歩は体重を6キロ減らしベルトを3・5センチ縮めた。当初は苦痛だった散歩の行も、変化する四季の風趣や樹木に野草・野鳥などに目を配る余裕を生む。
 もともと少年時代を片田舎で過ごしたのだから野草や樹木の名や生態の何がしかを知悉しているはずだったが見事にそれらが忘却の彼方にあることに愕然。いわゆる、“コンクリ ート・ジャングル”に“東京砂漠”といわれる無機質の都市生活にどっぷり浸かっている内に ぼくの眼は可笑しくなった。が、ぼくから何事かを奪い取り、引き剥がしてしまった都市生活の澱を、不思議なことに持病がほぐしてくれることになった。
 で、今回はタンポポのはなし。野草は逞しい。刈られても刈られても暖と水に恵まれれば たちまちに蘇る。なかでもタンポポは鮮やかな黄花とともに逞しさも際立っているように思う。キク科の多年草・タンポポは、面白いことにギザギザの葉を周囲の雑草の背に合わせるように放射状に這わせる。薄く刈られた芝生広場では芝の高さで開花する。茎丈2センチほどの花弁が点在する光景は緑の浴衣着にキクの花があしらわれた文様のようだし、畦道に蘇生する丈高い雑草のなかに見るタンポポは、負けてなるものかと50センチにも茎を伸ばして陽光を獲得する。

 『たんぽぽ』(甲斐信枝=作)は、そんなタンポポの生態を作者が執拗に観察して描き上げた作品である。枯草のなかでじっと春を待つタンポポ。まんまるい蕾を包み、寒と暖の間で変幻自在に姿を変える。暖を捉えて舌状の無数の花弁を全開させたと思ったら、朝夕の冷気に触れると閑かに花弁を閉じる。苦難には辛抱強く耐えぬき、時を得れば精一杯の自己主張。したたかというのだろうか、見事な野の草なのである。
 花弁の大きさも直径15ミリ〜35ミリくらいまで多様なのは丈と同様に周囲の雑草と協調しながらも負けてはいないぞと主張しているのではないか。そんな強いイメージのタンポポも花の披露を了えると茎をぐいっと伸ばして頭を真っ白な冠毛で蔽う。ふんわりとしたやわらかな綿毛はなんとも優しい雰囲気を醸してくる。そして、まるでパラシュートが空いっぱいに舞うように風に乗り旅立つのだ。ぼくの孫坊主もこんなタンポポの魅力に囚われている。鮮やかな黄色の花弁を愛で、冠毛を乗せた茎をそぉーともぐ。そして、息を吹きかけ綿毛が四散して舞うのを楽しむのだ。

 絵本『たんぽぽ』は写実にすぐれ、発芽・開花・冠毛などの実際を再現してくれる。38頁の画面展開は、大胆にも見開き縦画面を用いたり、綿毛舞う場面では圧巻の両観音開きの大画面で迫力たっぷりに構成する。知識絵本に起承転結の物語性を持たせているのである。
 自然を客観的に見る、物事を注視して現象を掴む。つまり、観察する力は生きる力に繋がることをこの絵本は示唆しているのではないか。戸外に持ち出し自然の実際とともに親子で楽しみたい絵本と考えたい。
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