たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第35号・2004.07.10
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一意専心。「学ぶ」ことのすばらしさは威を求めない。

『あたまにつまった石ころが』

写真  「学ぶ」ということにはいくつかの側面があり、「学び」の目的や内実も多様である。例えば、「学ぶ」ことを意識しないで一意専心に何事かに打ち込む人々がいる。そんな人物に対して物事に執着する資質にどうやら劣るぼくは、ただただ感心してしまう。
 昆虫少年だったという養老孟司さんは、長じて解剖学者として名を極める。そればかりか著されるエッセイ作品が悉くミリオンセラーとなるブレークぶりだ。だが、今でも変わらず虫を追い標本作りに精を出されていると聞く。”なるほど”と一意専心の結実に感嘆する。
 ぼくの友人に帝国主義下の日本に於ける教育現場の実際に学生期から関心を寄せ、数十年も史資料探しに東に西にと奔走する教育史学者Iさんがいる。その執拗さには舌を巻く。彼は成果として数々の貴重な論文を教育史学界に投じている。しかし、資本主義の原理は研究機関にも及ぶのか、彼の研究分野に着目する大学や研究機関が少なく業績にふさわしい処遇を彼に与えてはいない。
 養老さんにしてもIさんにしても処遇を期待して其々の対象に身を粉にして打ち込んできたわけではないだろう。二人は、「学ぶ」ことの楽しさに捉われた人々であり、そのことがぼくらの心を動かすのだ。
 だから、2000年に発覚した藤村某氏による旧石器発掘捏造事件は、猟官打算で動くとんでもない曲者が学びの世界に紛れ込んでいたわけで学問を陵辱するとても許せない出来事であったと思う。
 そんなことを柔らかく優しく語ってくれる絵本がある。『あたまにつまった石ころが』(C・オーティス・ハースト=文 J・スティーブンソン=絵 光村教育図書)だ。作品は、子どものころから石ころ集めに熱中した著者のお父さんのおはなし。なにしろ、主人公は、「あいつは、ポケットにもあたまのなかにも石ころがつまっているのさ」と周囲に言わしめる執念で石を追う。成人してガソリンスタンドを家業とすることになっても石の採集は止まない。店の奥に陳列棚を配して採集場所や種類を調べラベルに記録して石を収納する。
 彼の凄いところは、石の採集に熱中しながらも生計を支える仕事にきちんと励んだことだ。ウォール街のあの「暗い木曜日」が引き金を引いた世界金融恐慌時前後の(日本では昭和恐慌時)人気車・T型フォードを解体して分解部品を精査に確認、組立て直す技術も培い修理や部品販売店としても成功する。家業には景気の波風が吹く。不景気に飲み込まれたある時期、仕事を失った彼は懸命に仕事を探す。彼はどんな仕事でも引き受けたが一日二日で終わる仕事ばかりしかない極度の不況のなかでもがく。ひ  その間でも彼の採集活動は相変わらずだった。妻にも「あなたのあたまのなかには石ころがつまっているのね」と呆れられてしまう。仕事のない日は科学博物館へ出かけ、石をかざったガラスケースの部屋で1日を過ごす。ある日、女性館長が彼に声をかける。
 「なにかおさがしものでも」
 「自分のもっているものよりいい石をさがしているんです」
 博物館所蔵の膨大な数の石のなかで、彼が持たない石はわずかに10個程度だった。それを聞いた館長は驚く。「この男は何者だ?」ということだろうか。彼の所蔵石や分類の実際にも触れて感嘆した館長は学歴のない人物を博物館が専門家として雇えないことに地団駄を踏むが、夜の管理人としてとにかく彼を博物館に雇う。彼は管理人の立場ながらも間違ったラベル表示の間違いを指摘するなど博識を存分に発揮する。そして後年、彼は鉱物学部長になり終には博物館長にまでなってしまうではないか。
 学歴なんかなくても「学ぶ」ことはできるのである。しかし、学界でさえも多くの場合、権威にすりより安閑としているのが実際だ。だからこそ、「学ぶ」ことに権威など求めず一意専心に学びに取り組む人々のすばらしさを心に留めておきたいと思う。
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