たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第40号・2005.05.10
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グリム童話を歌劇のような幻想的な絵画展開で見る

『いばらひめ』

写真  口承文芸とされる昔話や童話の原型が現在のものと相当に異なり、残虐性や猥雑性を含んでいることはよく知られる。
 まだ、「子ども・子ども時代」の概念が育っていない頃のことで青年男女の戯れ話や残酷話、井戸端語りが原型だったのだろうか。しかし、近代を迎えて子どもや教育に関わる考え方が重視されるようになると毒味や下卑た話はしだいに削がれていく。時代相を映して物語は教訓話に変じたり、勧善懲悪物語に転じたりした。

 もう五十五、六年も前になるから、むかしむかしの話。ぼくは、祖母の語りから多くの昔話を聞き知った。絵本など手にできない時代で、テキストなしの祖母の語り芸だった。「浦島太郎」や「花咲爺」などの日本のお伽噺や昔話が多かったが、「シンデレラ」や「あかずきん」などペローやグリムの物語も祖母は語った。ほとんどが勧善懲悪のハッピーエンド・ストーリー。戦後まもなくの時代風潮からすれば納得できるはずだ。祖母の語りは、堂に入りよどみのない名調子。メリハリも利いていた。明治前期生まれの祖母が多数の口承文芸をどのようにして暗誦諳んじるほどに身につけたのか、今では不思議でならない。現在の家庭人で昔話などの語り芸を持つ人はまれだろう。代わりに出版文化が豊かになって絵本や童話で伝承されるようになった。
 多くのグリム童話を絵本化した一人にエロール・ル・カインがいる。アニメ映画人であったル・カインの作品は、平面であるはずの紙面に演劇的な立体感覚を持ち込む幻想的な絵画展開で知られる。“イメージの魔術師”といわれる所以である。

 『いばらひめ』(やがわすみこ訳/ほるぷ出版)は一九七五年の作品。ル・カインは、歌劇を想起させる華美な舞台に中世王朝やらエリザベス王朝のものと思われる衣装で着飾った王族や妖精(仙女)を妖艶に美しく描いた。様式美というのだろうか。テキスト頁にもこだわりを示し丁寧なフレーム画で装飾。「映画は枠(フレーム)だ」と名監督・吉村公三郎は言ったがル・カインの絵本創作も映画づくりと同根だったのだろうと思う。多様な史資料を渉猟して絵作りにあたったル・カインは、レンブラントなどの作品を巧みに引用して自らの作品世界に昇華させたと自ら語っている。 狂のつく若年層のファンを持つ特異な魅力はここにあるのだろうか。
 『いばらひめ』の物語は、「眠り姫」伝承話だ。十七世紀初頭の『五日物語』に顕われた「眠り姫」は同世紀末のペロー童話「眠れる森の美女」で再現する。そして、一八一二年のグリム童話にやや趣を変えたすっきりとした短編童話として収録される。

 子どもの誕生を待ち望む王と王妃。蟹のお告げで願いが叶い姫を授かる。で、お祝いの宴となるが、この国の仙女(妖精)十三人のうち一人だけ招かれない。馳走に使う金の皿が一枚足りず招かれなかったのだ。祝宴もおひらきの頃合となり十二人の仙女たちは、「徳」や「美しさ」や「富」やらとそれぞれ魔法の贈りものをする。
 ところが十一人目の仙女が贈りものを授けたとき、招かれなかった仙女が飛び込んできて、「お姫さまは十五の歳につむ(糸紡機の錘)に刺されてお亡くなりになるでしょうよ」と呪うのだ。十二人目の仙女にはこの呪いを消すことができない。「お姫さまは死ぬのではありません。百年のあいだぐっすり眠りこんでおいでになることでしょう」と呪いを軽くするので精一杯。
 呪いは現実となる。姫の眠りは城全体に広がり、王も妃も馬や犬まで深い眠りに…。だが、城の周囲はいばらの垣で生い茂り城を蔽い隠してしまう。眠り姫の噂は国中に広まり噂を聞きつけた王子たちが生垣を切り拓こうと挑んでいくがいばらにとらわれてあえない最期を遂げつづける。 結局、姫をめざめさせたのは呪いどおり百年後に訪れた王子だった。王子が眠り姫にキスをすると姫の目がぱっちりと開き、つづいて城全体が眠りから覚めるというストーリー。もちろん、いばら姫と王子は結ばれてめでたし、となる。

 百年前に十五歳であった姫と只今青年の王子が結婚するのだが、読者のだれもそんなことを咎めたりしない。物語(フェアリーテール)の世界は面白く美しいのである。
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