たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第44号・2006.01.10
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呆れかえるほどのばかばかしさと
迫力に喝采を送ろう

『八郎』

写真  口承・伝承により古く中世から語り継がれてきた昔話やおとぎ話の影が薄くなってきている。親子のあいだでも幼稚園や保育園でも語られることが少なくなった。
 現代に生まれた児童文芸にすぐれた作品が多く嗜好がしだいに移り変わるのは必然である。しかし、日本人心性の拠り所となるなにがしかを形成してきた昔話やおとぎ話が語られなくなるのは寂しいし日本人が文化的根無し草になりはしないかと気を揉む。

 明治中期に巌谷小波が口承・伝承説話を活字文芸として体系化した業績は良く知られ、そののちの多くの子どもたちが桃太郎や金太郎、カチカチ山に花咲か爺・こぶとり爺などを家庭で読み語ってもらう。
 本を手にするのはまだ贅沢な時代だったから学校などで見たり聞いたりして身に刻んだ物語を各人各様が方言まじりの口承で家人に語った。誕生の時代背景からいささか教条的に勧善懲悪・刻苦勉励などを説く物語が多かったことで戦後の一時期イデオロギー的に忌避する動きも生まれる。
 しかし、そこに日本人らしい心性の脈絡があるとするなら、事の善し悪しを批判的に捉えながらも幼児・児童期にきちんと触れさせるのは是と考えてよいのではないか。

 ぼくは、多くの昔話を祖母や母から口承で聞き知った。桃太郎や金太郎の度はずれた心優しい力持ち物語は幾つになっても心を鼓舞する。双葉山・大鵬いまはなく、幸之助・宗一郎も、家康・湛山もいない。
 傑物・大人物のなくなった日本で欧米風の生活スタイルが浸透して“日本が、日本人が壊れはじめた”とさえ語られるようになった現在。弱者いじめが横行し強者には尻尾を振る。近年の風潮は安全神話の日本を微塵に粉砕して子どもを巻き込む残酷な事件を多発する。

 そんな風潮を捨象し痛快な偉業を果たす大傑物の物語がある。なにしろ大海を相手にがぶり四つの勝負を挑むのだから主人公・八郎は相当に馬鹿げた輩ではある。伝承説話のような話であるが『八郎』は異才・斎藤隆介の創作童話だ。この童話に骨太切り絵の滝平二郎がこれもがぶり四つで絵本化した。

 「むかしな、秋田のくにに、八郎って山男が住んでいたっけもの。んだ、あのかしの木な、あのぐらいもあったべせ。…、あんまし大きくて、見てるものは、ほーいとわらってつい、気持ちよくなってしまったと。」こんな方言ですべりだす特異な言葉の運びが声に出す語りを催促する。
 ある日、男の子が海を見てわいわい泣いていた。八郎が男の子を八畳敷もある手に乗せてわけを聞くと村の田が塩水をかぶりそうで、父さんも母さんも村の人も、子どものことなどかまっていられなくて大騒ぎで水防ぎにかかっているという。
 これを聞いた八郎はとんでもない行動にでる。山の麓に走りより何と山ごと「よおーっ!」って担ごうとするではないか。相手は山だ。少々動いたもののそうは動かない。だが、あの男の子の涙を思うと八郎はひきさがれない。「なあ、ん、の、こったら山あーっ!」と叫んだ八郎、「めきめき、ゆっさゆっさ、……よおむ、む、むーん」と、ついに山を背負い上げてしまう。
 さらにクライマックスの場面。山を大海が二分するほどに放り投げた八郎、それでも敵わぬとなると、「したらば、まんつ」(ちょっくら、いってくるよ)と言うや、八郎自身が両手を広げて海に入り対決する。押されては押し返し、勝負は八郎の勝ち。

 この呆れかえるほどのばかばかしさとその迫力に無条件に喝采を送りたい。
 とてつもない巨人だが子どもの涙に自らも涙するこころやさしい大男。わが身を捨てて村人たちの田を大海の波から守る『八郎』物語に悲壮感はない。
 突拍子もないスケールばなしが類いのない力感で迫り、爽快な傑物噺として読み手・聞き手のこころを捉えて離さない。創作童話の完成度と四つに組んでビクともしない黒白の図太い切り絵の大勝負も心騒がせるのである。
 とにかく、声に出して何度も読んで欲しいと思う。八郎潟誕生逸話にみせた民話風語りは見事というほかなく、かくして傑作絵本のひとつとして不朽の作品となる。
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