一日半歩

大人は「生きる喜び」を伝えているか?

 人として地域や社会で生きていく上で何が大切かを、子どもたちへ真摯かつ誠実に伝えていく必要があるのではないだろうか。我々大人は、そのためにこそ、もっと時間を使うべきだと思う。では、具体的に何を伝えるか?〈第30号より〉

 人生に意欲や志を見出せない高校生が増えているという。それは、一体なぜだろう?
 昨年テレビで放映されていた『Dr.コトー診療所』を見ていた人は多いと思う。それは、孤島の医療を一人で担う青年医師と島の住民との物語である。実は、その物語の中で何度も何度も繰り返し出てきた言葉があった。それらの言葉を耳にするたびに、テレビの前で涙ぐんだ人もいただろう。その言葉とは、「頑張れ」と「ありがとう」と「(君が)必要なんです」の三つである。
 三つの言葉……、すなわち、励まされ、感謝され、必要と言われた人間の心を想像してみよう。意欲は湧かないか? 志は生まれないか? 生きる喜びを感じないか? 生きていて一番うれしいのは、まさしく、この三つの言葉の「思い」に触れたときではないのか?

 最近、私は小学校の読み語りで、『こいぬのうんち』(クォン・ジョンセン/文、チョン・スンガク/絵、ピョン・キジャ/訳、平凡社)という絵本を読んでいる。「うんち、きったねぇ」の出だしから、子どもたちは大はしゃぎである。しかし、読み始めると、はしゃぎ声は次第に消えていく。そして、教室が静まり返る絵本の後半、道端にぽつんと芽を出した「たんぽぽ」は、降りしきる雨の中で小犬のうんちを見つめながら、こう語りかけるのである。
「私がきれいな花を咲かせられるのは、空から降ってくる雨と暖かい太陽の光のおかげ。そして、もう一つ絶対に必要なものは、うんち君が全部とけて私の力になってくれることなの」
 それを聞いた小犬のうんちはうれしくてうれしくて、うれしさのあまり、たんぽぽの芽を両手でぎゅっと抱きしめるのである。

 我々大人は、きれいな花を咲かせようとする子どもたちのために、雨と太陽と小犬のうんちであろうとしているだろうか? 「我々が雨と太陽と小犬のうんちだから、大丈夫、君らは立派に花を咲かせるよ」と、子どもたちに心を込めて伝えているだろうか? 人生に意欲や志を見出せない高校生は、我々大人をそういう目で見てくれているだろうか?
「こいぬのうんちは、からだじゅうあめにうたれて、どろどろになりました」を読むあたりで、私はいつも涙ぐんでしまう。2月のある日、寒河江中部小2年3組の教室でその場面を読んでいたとき、小さな目に私以上の涙をいっぱいためた少女がいることに気がついた。私が読み終えると、絵本の最初に描かれていた赤黄青緑の斑点模様を「小犬のうんちの愛だと思う」と、その少女は静かに言い当てた。
 たんぽぽと小犬のうんちの間には、「頑張れ」と「ありがとう」と「必要なんです」が交わされていた。それは愛であり、生きる喜びそのものだった。

「絵本フォーラム」34号・2004.05.10

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