絵本・わたしの旅立ち
絵本・わたしの旅立ち

絵本・わたしの旅立ち
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本は買うモノ
 絵本には親切にも「読んでやるなら幼稚園、自分で読むなら小学校3年から」などと、指定したものがあります。
 だから、その言葉を信用して、わが子が間違いなく喜んでくれるだろうと思って、読んでしまいます。ところが案に相違して、子どもたちは一向にのって来ようとはしないのです。
「わたしも相当感激したステキな絵本なのに」
 お母さんががっかりして「やっぱり、この絵本はダメかしら」
 絵本の指定などを思いだして、少々腹だたしい思いで絵本を閉じてしまう人もいます。
 これは「本」というものと「テレビ」のようなものとをゴッチャにしている怖れがあるといわねばなりません。
 というのは、テレビなどは一回だけ放映されるのが普通です。だから一回みただけで内容が充分わかり、しかも興味ぶかく映るものなのです。それでテレビでは一回みることだけで充分理解できるような内容を送るときには、これほどいい性格のメディアが他にないかもしれません。
 しかしそれに対して、本はテレビのように受動的に受けるものではなく、自分で接し方が選択できるのです。まず自分が読みたいニーズがある時にページをあけ、途中納得できないところがあれば、もとに戻って読みなおすこともできますし、わからないところは調べたり質問したりして疑問を解消しながら進めることが可能なのも本なのです。
 こういう接し方をして、何度も繰り返せるのが本であり読書というものです。お母さんが、ただ一回ぐらい読んで早合点をしてつづけるのをやめることは、ほんとうにモッタイないと思いませんか。
 つまり本とは、一回よめば一回だけ、二回よめば二回だけ、新しいものを発見できるような、本だけの微妙な内容をもつもの―といえるでしょう。少し極端なことをいえば、何度繰り返しても何も得られなくても、繰り返すことによって四回目か五回目に「あっ、これは!」思わず身をのりだしたくなるような深い内容を抱えているのが本なのです。
 絵本は相手が割合低年齢であることから、中には「子どもたちは、そんなわからないモノを辛抱しませんよ」と笑いだす人もいますが、そういう思いをさせないために、一緒に読んでくれる伝達者、お母さんや大人がいるわけです。
 「あきらめない」ということ、それだけ努力しなければならないのが、子どもと読書―絵本を読むということなのです。
 こうして一冊の本が繰り返して読まれ「わが家の本」となるわけですが、自分の子どもに読んでやった絵本が、自分の子どもたちも、また更に自分の子や孫に読みつなぐ―こうして一冊の本と深いかかわりをして「わが家系の宝もの」となるのが理想的であるし、わたしの個人的な仕事の夢でもあるのです。

 ではそんな大切な、またステキな本を、どこでみつけるのか、そのチャンスはと、聞きたくなるでしょう。
 それは誰もが考えるように、図書館や地域文庫や本屋―小売店です。とりわけ図書館には個人では接することのできない圧倒的な量と種類のものが収蔵されています。しかもそれは私たちが利用するよう広く門戸を開いているのです。
 わたしたちは収蔵されている本のなかから選べばいいのですから、俗にいうなら「本の見本市」になる筈です。世間にも選択の基準、それに基づく選択の方法など、多くの情報がありますから、参考にすることが容易でしょう。
 もちろん図書館は「本の見本市」であるだけでなく、もっと重要なはたらきがあることはわかりきったことなので、別の機会に詳細は語りたいと思いますが、図書館で読める本は積極的に読むのは当然ですが、問題は図書館や文庫で読む本と、わが家が買いこんで自分のものにした本とは、同じく本であっても、相当本としての意味が違うことを認識しなければならないでしょう。
 まず図書館の本は自分専用のものではなく、他者の所有物では、本のすべてのものを自分のものにできません。ただ「中味」しか得られないのです。わたしがいつも「本は身銭をきって自分で買え」といっているのは、わが家での専用の本は「中味」にとどまらず、本をわがものとして手もとに置かなければ得ることができない、さまざまなプラス・アルファがあるためです。
 その基本的なよろこびは、世のなかで一ばんステキと思えるほどのものを自分のものにした充実感です。それにつけ加えて、いつも読みたいときに読みたい本を、わがものにできる満足というものは、他に比べることができないでしょう。こんなことを出発点として「自分の本」は、さまざまな役割を、わたし自身の人生に果してきます。
 こういう「自分の本」や「わが家の本」を、わたしたちは、どれだけ所有していることでしょう。こういう本をいくつ持つかが、大袈裟にいえば、わが家の文化度の象徴となるかもしれません。
 わが家のものにしたい本は必ず買う―というのが、私の熱い願いですが、本とはいえ、絵本と他の一般的な本とは勿論相違はありますが、その基本的な性格に変わるところがないわけで、たとえ成長して絵本を卒業することはあっても(本当は、そんなことが起こらない)、人生は絶えず「人生の最初の本」との深い思いの旅であることを、たしかにわたしは信じたいと思っています。

「絵本フォーラム」36号・2004.09.10


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