絵本・わたしの旅立ち
絵本・わたしの旅立ち

絵本・わたしの旅立ち
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いつの日かせかいぜんたいがほんとうのやさしさに
 まど・みちおさんの詩にありました。

 さかなやさんが
 さかなを うってるのを
 さかなは しらない

 にんげんが みんな
 さかなを たべてるのを
 さかなは しらない

 人間と生きものとの間の、こういう恐ろしい関係を、ただ「やさしさ」ということだけで解決できる時がくるのでしょうか。
 生きものと私たちの危険な関係の深い闇を思うと、非常につらい思いにかられるのですが、その人間が同じ人間に対しても「やさしい」というわけでもありません。
 たとえば今、世界では三千万人の子どもたちが、食べる食べものもなく、死ぬ直前のような生活をしていますし、また地震や津波で、家だけでなく家族を失った子どもたちが、腹をへらしてどれくらい路頭に迷っていることでしょう。
 しかし、そういうことは人間が自分から求めたのではなく、旱魃や自然の災害にやむを得ずそうなっているのです。
 けれど一方ではその人間同士憎しみあい、互いに殺しあっている現実を知っているでしょう。いま世界の百カ所以上の場所で、いのちのやりとりをしているのです。

 口では「やさしさ」を語りながら、わざわざ「戦争」というものを作っているのです。
 いまこの時にも個人的には互いに何の怨みも怒りもないのに銃の引鉄を引かねばならないのです。
 戦争を知らない子どもたち、戦争の現実を忘れている親たちに、その実体を理解してもらうためには、文章で読むだけでなく具体的な生ま生ましい絵を加えて、より正確により鮮明に、その実態を伝えてくれるのが絵本でしょう。
 私たちは沢山の戦争の絵本を描いてきました。戦場の残酷さ、空襲の恐しさを伝えようと汗を流してきました。その絶頂が一発で十数万人も命を落した『ひろしまのピカ』原子爆弾です。作者の丸木俊さんは、その恐しい絵本を、こう結んでいます。

 「ピカは、ひとが落さにゃ、おちてこん」

 また「お国のため」に片道の燃料だけしか持たないで、爆装した飛行機で敵の軍艦に突入する若者たち『すみれ島』。戦争が終ったあとの戦場で不運にも命を落す少女『地雷より花束を』。こういう絵本はまだまだ出版されるでしょうが、ただ戦争の悲惨さを知るだけで終っては、戦争で命を落した多くの人びとに申しわけありません。
 私たちは、なぜ戦争が起るのか、たとえ一つずつの戦争にもそれぞれ理由があるにしても、なぜ止めることができなかったか。なぜ、いのちを大切にしなければならないか。人間として、やはり自らを深く見つめなくてはなりません。

 自分を知るといえば、私たちは、さまざまな危機に追いこまれたときの経験をいつまでも忘れることはないでしょう。
 「女は弱し。されど母は強し」と昂揚していたにもかかわらず、機銃掃射を浴びながら逃げまどう絶対的な危機にさらされたとき、母親は自分が助りたいために、そこまで大事に抱えていた赤ん坊を激流に投げ棄てる。こういう光景をいくたびも見たことでしょう。

 私たちは絶対的な危機に出会うまで「わが子まで棄て去る自分」であったことに気がつかなかったのです。そういう可能性を持つ自分に気がつかなかったのです。そういう気がつかないことすら自分で知らなかった自分。戦争は私たちに、国と国、民族と民族との関係以上に、自分の人間存在としての本質を、いくたびつきつけてきたことでしょう。

 成長していくわが子とともに、単にストーリーを楽しむだけでなく、そこまで気づかせてくれるような絵本。そういうことがわかって、初めて人間らしい人間となるよう、私たちに訴えるような究極の絵本を心から待つ昨今です。

「絵本フォーラム」44号・2006.01.10


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