子どもの本である絵本は子どものためだけにあるのでなく、大人にとっても手にし たい本として語られるようになった。それは絵本の持つ特質、例えば自然の理や人間 関係のありよう・社会のしくみなどが虚飾なく絵物語として解りやすく描かれること に起因すると思う。
 その絵本について、中川正文さんが十篇のエッセー収載の『絵本・わたしの旅立ち』 を著した。研究者・作家として、大阪国際児童文学館館長として、戦前から永く子ど もの本に関わる中川さんは僧侶の顔も持つ。本著は熟達したやさしい言葉でさらりと 綴られる名言集といえるが、経験体験に裏打ちされた絵本への熱い思いは薀蓄話など とかたづけられない深さと示唆をしっかりと刻む。絵本に親しむ意欲を掻き立てられ る気持ちのよいお説教もときに飛び出すのが愉快である。

  例えば、「子どもに絵本を与えるとはなにごとか」と人間が人間に文化を届けること に上から下への高慢さ・思い上がりがないかとお説教。大人と子どもは感じ方こそ異 なるだろうが同じ絵本に感動する。「一冊の絵本を仲立ちとして経験を共有してとも に成長するのが、大人と子どもと絵本との関係ではないか」と説くのである。
  なかでも中川正文さんの絵本観が凄みを帯びるのは、人間の「やさしさの正体」を 捉えようとする姿勢だ。日常のぼくらは軽易に「やさしさ」という言葉を使っていな いだろうか。この著作に触れると不用意に「やさしさ」などと使えないな、と襟正す 想いになってしまう。著者はやさしさの正体を考えるのに絵本や童詩がずいぶんと力 を持つことを絵本『さっちゃんのまほうのて』や坂田寛夫・金子みすずの詩を引用し ながら諄々と綴る。

  生まれつき指のない子どもから「ゆび、いつ生えてくるの」「どうしてグー・チョキ・ パーができないの」と問われてぼくらは応えることができるだろうか。芝生維持のた めの殺虫剤が川に流れ込む不安のあるゴルフ場建設話が地域に持ち上がり反対に立ち 上がる住民たち。だが、一見善意の人々の行動も危険な水を飲むと「障害児や奇形児 が生まれる」という「やさしさ」と対極にあるとんでもない反対理由を持っていた。 こんなこと肯定できるはずがない。絵本『さっちゃんのまほうのて』が、無神経で軽 易な「やさしさ」に傷つき悲しみ苦しむ人々に対し、それを乗り越える勇気を与える 如何に大きな力を持っているか。絵本は一過性の読本と際立って異なる本なのだと諭 すように語るのである。
  柔道でいえば、背負いの大技で見事に一本取られた思いになるのが坂田寛夫の詩 「鬼の子守唄」。ぼくは大技取られた爽快感が残るが、中川さんは「目からウロコが 落ちる思い」をしたという。

こわいよ かあちゃん
桃太郎がきたよ
はちまきしめて
のぼりもたてて
ガッパ ガッパ 
海からきたよ
(坂田寛夫「鬼の子守唄」ハルキ文庫)
 昔話「桃太郎」を、鬼が島を攻める桃太郎側からでなく、鬼の家族側から物語るとど うなるか。だれも思いつかなかった側面を坂田寛夫が鮮やかに描く。鬼の子は桃太郎 の襲来に怯える。「こわいよ、かあちゃん」と叫ぶのも当然だろう。昔話桃太郎を逆 説でたどれば誰でも気づいてよいはずの「人間として当たり前の心」を、ぼくらはすっ かり見落としてきたのだと中川さんはいう。不思議に納得してしまう。

 絵本は読む前の世界と読んだ後の世界に隔たりがあり、その隔たりのなかに絵本が 訴えようとする大事なものが秘められているようだ。「やさしさの正体」もそのひと つだろうか。だから、中川さんは「成長していくわが子とともに、単にストーリーを 楽しむだけでなく、そこまで気づかせてくれるような絵本。そういう絵本とめぐりあっ て、初めて人間らしい人間になり得るということを、私たちに訴えつづける究極の絵 本を心から待つ」のだろう。で、そのような絵本を「いくつ持つかが、大袈裟にいえ ば、文化度の象徴となるかもしれません」といい、「わが家のものにしたい本は必ず 買う」と結ぶのである。絵本に関心寄せる人々には必携の図書だろう。

「絵本・わたしの旅立ち」
(中川正文・著)
NPO法人「絵本で子育て」センター

定価 1,200円+税 上製本 B6判 96項」
ISBN4-903607-00-3 送料(1冊200円)

図師 尚幸
(ずし・なおゆき)

 1945年1月、戦時下の大連生まれ。47年あき、父の郷里・宮崎県に引き上げ日南市に育つ。早稲田大学卒。新聞・雑誌記者、月刊誌編集長を経て書籍編集者に。訳書に写真絵本『おもいだしてください あの子どもたちを』、『写真記録・日本の24時間』(共訳)など。千葉県市原市在住。



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