絵本のちから 過本の可能性
特別編

「絵本フォーラム」45号・2006.03.10
読みきかせのすすめ
清水 道尾(絵本作家)

清水 道尾(しみず・みちを)
 1933年、岐阜市に生まれる。1968年、自宅に『子供図書館くがやま文庫』をひらき、本を仲立ちとして、子どもたちと接しながら、子どもの本の研究・普及・創造活動の一体的な深まりをめざすようになる。  主な作品として、『はじめてのおるすばん』(岩崎書店)、『ちいちゃんえほん』全12巻(ほるぷ出版)などがある。実践研究・普及活動ではペンネーム「美千子」を用いる。


 読みきかせとは、読み手と、本と、聞き手の三者がそろってはじめて成立する行為ですね。
 ふつう読み手は教師であったり、母親であったり、図書館員であったりしますが、まず、大人であること。
 聞き手の方は幼児から小学生くらいまでの個人か集団ですが、いずれも子どもであること。そしてここには読みきかせをしようという大人の意志と、聞きたいという子どもの欲求、またその行為をおこさせる要因や動機があることは、いうまでもありません。
 二つめに、読み手が、本――つまり活字化された文章を自分の肉声にかえて相手に読んで聞かせる行為と、聞き手が自分の耳できく、両者が一つの世界を共有するということです。
 三つめは、子どもがそこにいて、本があり、おとなが、子どものために本を読んであげようと思えば、いつでも、どこでも、読みきかせは成立します。もちろん、子どもにお話を聞く意志があってのことですが。
 読みきかせる人間がそこにいることが必要で、テープレコーダーなどで間接に聞く場合は、もちろん読みきかせとはいいません。また、本なしで直接語りきかせる場合も、たとえ本に書いてあるのと一字一句違わなくても読みきかせとは区別して考えています。
 もちろん、これらのことを否定するということではなく、導入、発展、そのほか必要な場合は読みきかせと平行して随時にこの方法をとり入れていますし、それ自体独立した目的や意義をもつものとして存在することにも異議はありません。とくに民話の場合など、語りきかせをきり離しては考えられないともいえるでしょう。

 しかし、読みきかせという言葉と、これらのことを混同することを避け、ここではいちおう区別して考えることにしましょう。
 また、大ぜいの聴衆の前で朗読し、聴衆がそれを鑑賞する場合も、読みきかせとはいいません。
 わたしたちは、一定の技術的レベルよりも、大人と子どもの本をとおしての人間的なふれあいと、その共通体験の中で行われる相互の発見と交流、創造と成長の方を優先して考えています。これは広い意味で、わたしたちが日常実践している読書教育の考えかたと一致します。
 ですから、まず子どもを知ること、その場にいる子どもの欲求やおかれている環境、発達段階はもちろんですが、もっと広く、いまの日本の子どもたちの情況をもできるだけ広くつかんだ上で、目の前の子どもの特徴をよく知る努力の方が大事ですね。どの本を選ぶか、どのように読みきかせかたをするのかは、その原点から一歩一歩実践者がさぐりあて、きりひらいていくものだと考えています。
 読みきかせということばは、最初にだれがどのような意味で使い始めたかということは、明確ではありません。ただ、少なくとも、このことばが、今日のような広がりを見せたのは、わたしたちの運動が始まったのと同時期ですでに30年になります。

 しかし、読みきかせということばは使わないけれども、形態そのものは、ずっと以前から行われていて、わたしの小学生時代――60数年前にすでにありましたし、一年生の時、担任から聞いた『おむすびころりん』の話は《おむすびころりん、すっとんとん》の歌声と共に耳の底に残っています。
 おとなが、子どもに本を読んできかせるという行為は、おとながそれを意識するしないにかかわらず、また子どもといっしょに楽しむ、子どもから学ぶということも含めて、広い意味で教育的なはたらきです。
 ここでいう教育とは、もちろん一方的な押しつけ、強制を意味するものではありません。また、ただ単に本に書かれた内容をわかりやすくかみくだいて伝える、教えるというだけのことをさしているのでもありません。
 ことばとことばに含まれる内容とは、日本人の祖先が長い歴史の中で獲得し、きたえ、成長発展させてきた、いわば文化遺産です。おとなと子どもが、本という一つの児童文化財を読みきかせという行為を通して共有する、その共有の中で行われる文化の継承と、個性的で新しい創造活動をここで教育的はたらきとよんでいます。

 いまは混乱している日本語の世界も、やがて止揚され、より正確で美しいいきいきとしたことばの文化が創り出されていくことでしょう。それはだれかが作ってくれるのではなく、わたしたち一人一人が日常生活の中でやっていかなければならない仕事なのです。
 こう書いてくると、書きことばより話しことばが優先のように聞こえるかも知れませんが、話しことばをより洗練されたものに成長させるためには文字による表現は重要な役割をもつものと考えられます。
 ことばと文字との関係はこうして相助けて、より美しい日本語の形成へ進んでいくと考えるとき、小さな子どもたちにすぐれた文章を読んできかせることの意義がますます重要になってきます。

 これからたくさんのことばをおぼえ、それを自分のものにしていこうとしている子どもたちは、ことばに対する感覚がおとなより鋭敏です。子どもにとって読みきかせてもらうことは、受け身ではなく、信頼するおとなと共に、ことばの世界を探検することなのです。
 子どもたちは、だれでも読みきかせてもらうのがすきです。聞いたことはことばでおぼえます。小さければ小さいほど、耳からはいったことばをそのまま使って、感動をもって自己を表現してきます。それは冒険であり、創造の喜びにつながります。

 わたしたちはまた、読みきかせの中で書かれていることばの正確さや美しさを選別できます。読みきかせることで生きた子どもの反応をとらえ、うそやごまかしを見ぬき、より厳しく作品そのものに対決していけるのです。読みきかせが教育的なはたらきであるとともに、よりよい文化の継承と創造につながるのは、そのためです。

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