えほん育児日記

わたしの子育て   

~絵本フォーラム第105号(2016年05.10)より~  第6回(最終回)

 最近の娘は、小学校から帰ってくると、ポツリ、ポツリとぼやくのが日課になっています。「友達にこんなことを言われた」「係の仕事を押し付けられた」……。夫は簡単に「腹立つなぁ。言い返したらいいやん」と言うのですが、そうもいかないようで、娘は娘のやり方で毎日を過ごしています。小学校生活も1年が過ぎました。気の合う友達もいるようですが、何かあると、言い返したい気持ちをぐっとこらえて黙っているのが、目下の娘のやり方です。個人懇談では、先生の「いつもニコニコしていますね」という言葉に驚いてしまいました。そんな風にトラブルにならないように笑顔を盾にする娘を見て、他に方法はないのかと、つい娘の言動に口を出してしまいます。

  そんな時、「行きて帰りし物語」という言葉を、瀬田貞二さんの本の中に見つけました。子ども達にとって、いちばん受け入れやすいお話の構造上のパターンだそうです。

  毎日学校へ行って帰る、友達と遊んで帰ってくる、娘の生活は、まさに「行きて帰りし」の連続です。しかし、ただ行って帰ってくるという並列の繰り返しでは、面白みはないと瀬田さんは言います。行って帰ってくる度に、物語が重層化されていくところに、物語の本質的な面白さがあるのだそうです。娘の成長にも同じことが言えるのかもしれません。間違っても失敗しても、自分なりに考えて、何度でもやってみることに意味があるのでしょう。

わたしの子育て  そうなると、私にできるのは、ただ「おかえり」と娘を受け入れてやる事しかないのだなと思い至ります。必要以上に口を出したり、あれこれと尋ねたり、私の方が安心を得ているようでは本末転倒です。帰ってきた娘が安心して自分のままでいられる、そんな場所でありたいです。

  「乳児はしっかり肌を離すな幼児は肌を離せ 手を離すな少年は手を離せ 目を離すな青年は目を離せ 心を離すな」(山口県の教育者、緒方さんの子育て四訓)

  気がつくと、娘は親の手を離し、幼児から少年へと歩みを進めていました。いつまでも、小さい子どものように思っていたのは親の私たちだけでした。そのことにハッとして、親としての立ち位置を考え直す機会を与えられたのでした。

  娘は今まさに、娘自身の物語を生きています。親はあくまで脇役でしかありません。そして、脇役でありながらも、私たち夫婦もまた、それぞれの物語を生きています。それを見て、娘はどう感じるのかわかりませんが、反面教師になるのもよし、大人になるのも悪くないと思えるような生き方ができれば、尚よしだと思っています。親が子どもにしてやれる事なんて、本当は、ほんの少しなのかもしれません。その中で、子どもの内に何か1つでも遺すことが出来るのであれば、親として、これ以上の喜びはありません。

  『ルピナスさん|ちいさなおばあさんのお話|』(バーバラ・クーニー/さく、かけがわやすこ/やく、ほわたしの子育て6-2るぷ出版)の中で、世界中を旅したルピナスさんは、おじいさんと交わした約束をついには果たします。それは、ルピナスさんの生きていく先を照らすともし火であり、同時に〝帰る場所〟だったのではないのかと思うのです。

  人生の晩年であっても、子ども時代であっても、帰っていく場所がある。そして、それは実際の場所であっても、記憶の中であっても、たとえ1冊の本であったとしても、その人の一生にとって大きな意味を持つような気がします。娘にも、そして様々な機会に出会う子どもたちにも、自分の歩む道を照らすものをどうか見つけてほしいと願います。良質な絵本や文学作品に出会うことも、そのための力になり得るのではないでしょうか。そんな思いが、今の私を支えてくれています。

  私も、私自身の物語を歩み続けます。娘にとっても、帰りたいと思った時に、いつでも帰ることのできる場所がありますように。そして、どんな子どもたちにも帰る場所がありますように。そう願い、日々を重ねます。

(くりもと・ゆうか)

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