喜怒愛楽

親になるための教育

 昭和後半のいつの頃からか、小学校は児童を無事に中学校へ送り出すことが、そして中学校は生徒を無事に高校へ進学させることが、何にも勝る至上命題として綿々と続いてきているように思います。
 ところが今、人を傷つけ、死に至らしむ青少年の凶悪事件が後を絶ちません。人生に意欲や志を見出せない学生は増えています。我が子をペットの如く扱い育てる若い親が多くなりました。気分次第で虐待までする夫婦も少なくないそうです。言うまでもなく、家庭や地域の教育力は低下の一途を辿っています。

 胸に手を当てて考えてみましょう。子ども達の多くは、赤ん坊を抱いたこともなければ、乳幼児の世話をしたこともないのです―。道徳の時間だけ立派な口をきいても、実際には弱者を守った経験などないのです―。通夜に出たことがないので、死を実感できないばかりか、嘆き悲しむ人の姿を間近で見たこともないのです―。テレビやゲーム、携帯電話に夜遅くまで興じています―。嫌いな食べ物なんか口にしません―。ひたすら自分の楽しみを追い、目の前の損や面倒を徹底的にいやがります―。そんな子ども達でも、勉強さえしていれば自らの将来は開けるはずだと、我々大人は本当に信じているのでしょうか?

喜怒愛楽   確かに学力は、人生を豊かにしてくれるかも知れません。そういう意味では、ないよりあるにこしたことはないでしょう。しかし、いくら学力があっても、弱者をいたわらない人間で良いのでしょうか?
 他人の悲しみを共有できない人間で良いのでしょうか? 心も身体も不健康な人間で良いのでしょうか?
 人のために尽くす喜びを知らないばかりか、それを面倒で馬鹿くさいと思うような人間で良いのでしょうか?
 トラブルに遭っても身の処し方が分からず、ごまかしたり逃げたりする人間で良いのでしょうか?

 いいえ―、それで良いはずがありません。だからこそ親は我が子に、小さき者や弱き者を慈しみ守る体験をさせましょう―。通夜に連れて行きましょう―。夜は早く寝かせましょう―。自らの心と身体を育て守るために食事をするのだということを、毎日の献立を通して教えてあげましょう―。損や面倒を引き受けてこそ、得られる喜びがあることを実感させてあげましょう―。

 そういうことこそ、親の責任だと思います。すなわち、「生きていく上で本当に大切なこと」を分かっていること―、しかも身につけていること、かつ子どもの心にきちんと刻みつけてあげること―、それらはまさしく親の責任なのではないでしょうか。

 敢えて不遜な言い方をすれば、「親の責任を果たせない大人が子供を育てている」場合が少なくないような気がします。例えば、走っている車から空き缶や吸いかけの煙草を投げ捨てる大人―。我が子が見ている前ですら、海や山に平気でごみを置いてくる大人―。授業参観の場であっても、平気でお喋りをする大人―。これ以上そんな大人が増えていったら、日本は一体どうなるのでしょう。今こそ家庭も学校も、人としての将来を見据えた教育に立ち返るべきではないでしょうか。

 子ども達に今一番必要なのは、『親になるための教育』だと思います。すなわち、「将来きちんと子どもを育てられる親」にしてあげることこそ、教育の根幹とすべきです。

 では、『親になるための教育』とは具体的にどういうものでしょう? 

「絵本フォーラム」46号・2006.05.10

鈴木一作氏のリレーエッセイ(絵本フォーラム27号より)一日半歩

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