豊かな人生

 便利な世の中になりました。例えば、お風呂を沸かすのも、洗濯をするのも、ボタン1つの操作でできるのです。どこにいても携帯電話で連絡はとれますし、メールのやりとりだって簡単です。行きたい所には、車のナビが案内してくれます。高速道路や新幹線のおかげで、出張も日帰りですむようになりました。映画は、映画館に行かなくても、テレビの専用チャンネルで見ることができます。音楽なら、デジタルオーディオプレーヤーに何千曲も取り込めて、いつでもどこでも好きな曲を聴けるのです。パソコンがあれば、知りたいことはインターネットですぐに調べられます。プレゼンテーション用のスライド作り、文書の記録・整理・保存だって容易にできるのです。

 私たちは今、便利で快適、しかも効率的に、自分のやりたいこと、やらなければならないことができるようになりました。では、それで余った時間は一体何に使っているのでしょう。もしかしたら、その余った時間まで自分のやりたい楽しみに使ってしまい、本当に大切なことをないがしろにしてはいないでしょうか。

 例えば、親が子どもと関わる時間はどうでしょう。子どもを保育所や幼稚園に通わせたり、学童保育に預けたりするのは仕方ないとしても、その分、親子で関わる濃密で豊かな時間を、家庭内できちんと確保しているのでしょうか。

 胸に手を当てて考えて欲しいのです。テレビやビデオ、ゲームなどに子守りを任せている親はいませんか。子育てを楽しむとばかりに、夜遅くまで子どもを寝かせず、ペットのように扱っている親はいませんか。忙しいからと、栄養バランスも考えずに食事を用意している親はいませんか。勉強ができて良い学校に入れなければと、入試のために就学前から塾通いをさせている親はいませんか。日本語すらまともに使いこなせない若者が多いのに、乳幼児のうちから英語を学ばせている親ははいませんか。

 すなわち、大人の都合や楽しみばかりを優先し、あるいは子どもの将来のためにという理由から、「子どもを立派な人間に育てる」という視点をおろそかにしている親はいないでしょうか。言い換えれば、「豊かな人生とはどういうものか」が分からない親が増えてきてはいないでしょうか。

 絵本『ハルばあちゃんの手』(山中恒/文、木下晋/絵、福音館書店)を読んでみると、立派な人間とは、そして豊かな人生とはどういうものかを考えさせられます。

 生まれたての手、かごを編む手、悲しみで顔を覆う手、生活のために針仕事をする手、愛する者に触れる手、愛する者とケーキを作る手、愛する者が死にゆく時になでた手、そして愛する者を思いながら舞をまう手——。

 ハルばあちゃんの手は、暮らしを助け、愛を育み、死をみとります。誠実に、心やさしく、時には愛を信じて我慢をし、時には愛のために勇気をふるう——。立派に生きたハルばあちゃんの手は、そういう手だったのです。

 「豊かな人生」とは、経済的に裕福で、便利かつ快適な生活をおくることでしょうか。少なくとも、それ以上に大切なことがあるはずです。   例えば、「生き甲斐を持って働き、小さき者や弱き者を助け、真面目に生きている自分にささやかな喜びを感じ、良い仲間と郷土、そして愛する家族に恵まれて私は幸せだった」と思えるような人生でしょう。

 絵本も、「あんたのおかげで/ずっとしあわせだったよ」で終わっています。

 
「絵本フォーラム」54号・2007.09.10

鈴木一作氏のリレーエッセイ(絵本フォーラム27号より)一日半歩

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