絵本・わたしの旅立ち
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絵本・わたしの旅立ち
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どちら向いても、恐いことがいっぱい

 わたしは嘗つて昔ばなしについて語ったとき、

「いろいろ興味ぶかいストーリーがあってありがたいけれど『三枚のお札』型の話だけはいただけないなあ」

 と溜め息をつくと、居並ぶ現職の幼稚園の先生や、子育て最中のお母さん方が、ハネかえすように、

「何をいってるのですか。危機が迫っているときに、予想どおりに期待の助っとがあらわれて、安全な解決を果たす——。そこが子どもたちにとって面白くて、たまらないのです」

 こういう趣旨の反論が次々に出てきて驚いたのです。実はわたしがそこが不満だつたわけなので、弁明しても仕方ないと思いましたが、自分の全力を投げだして危機を乗りこえようとしないで、架空の他人の力などを借りて満足な結果が得られるということでいいのでしょうか。

 もっとくだけていうなら、オリンピックの女子マラソン選手が、母親がくれたお守りを腰につけて力走する姿を、親子の情愛の極地のように実況放送するアナウンサーのカン違いや、入学試験で合格を夢みる人たちが、親子そろって神社へまいったり、まる一年で時効がきて買い換えなければならない交通安全のお札、更に水子供養の類いなど、自分の責任で汗を流すことをしないで、根も葉もない迷信を頼りにするようなことと同根の「人間のこころの弱さ、危い体質」を認める——というより賞揚すると思いかねないストーリーを、大人向きならともかく、子どもが喜ぶからといって、なぜ、いつまでも代表的な良い昔ばなしと位置づけて語りつづけていっていいものでしょうか。

 わたしは乳幼児だけでなく母親や先生の周辺にまで、危しげなものが古い時代そのまま残存している文化的危険が心配でならないのです。

 危険は、絵本や語りの内容、ストーリーの中味にあるだけではなく、乳幼児と絵本との間には、その切実な深いつきあいの仕方によって、まるで両刀の剣のように、子どもたちの心や体を痛めているのが現状なのです。

 永田桂子さんの報告によると、年令が低ければ低いほど物理的な危険率は高いようで、絵本との間の事故は日常的に広がっているといいます。

 生後6カ月、本をみせると手を伸ばしてつかみそうにするので、その手元の欲求が嬉しくて、満足させてやろうとして即座にもたせると、勿論重すぎます。両手で絵本をはさみ込むようにつかんだものの、うまく持てなくて、本の角に激しくぶつかって泣きだします。これはのちの対絵本の心象に影を落としかねないでしょうか。同じ7カ月、自分で絵本をさまざまな持ち方をして玩具としてのあそびをしているうちに、用紙でしばしば掌を切ってしまう。指のつけ根など特に危いようです。

 こんな誕生直後から始った事故はいよいよ多種さまざまな様相を示してきて一瞬も目を放せません。それでつい絵本との関係をそこないかねないほど「しつけ」がきびしくなっていきます。

 とくに最近は、仕掛け絵本の発想や工夫が思いがけないくらい展開し、面白そうであればあるほど危険が隣り合せということになって驚かされます。とりわけ絵本好きの年長の兄弟が、ページをひらくとロケットがパッと飛びだすのを楽しんでいたりすると、自分でも試みようとして模倣しては、その拍子にころんで鼻のつけ根を骨折したりしたこともあるようで、ロケットの先が目に的中したりする光景は、考えただけでも寒気がします。

 こういう物理点な事故は、親などの目がゆきとどいていると大事に至らずにすみますが、子どもたちの日常で、つい見のがしてしまう何でもないような事柄——ページをくるかわりに、印刷された絵をベロベロとなめてみたり、表紙のボール紙をチューインガムのように噛んでみたり、予想もつかないことを仕出かすことは、誰もが承知していることです。

 ほんとうに、絵をなめて、印刷インキの甘ま味を覚えてしまっていいものなのか、インキの材質はさまざまですが、それらに毒性がかくされていないか。明らかに習慣的にわたしたちを蝕む鉛系のものには用心はするものの、現代の印刷インキは、その鉛についてすら安全なのか。

 まだまだ検証し対策を考えなければならないことが残っているようです。

(この項つづく)


「絵本フォーラム」54号・2007.09.10


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