たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第60号・2008.09.10
●●49

素朴な言葉のやりとりがみんなを善意にする

『おまえ うまそうだな』

 朝の散歩道はすがすがしい。5時、6時という夜明けの朝だけが持っている特有の雰囲気があり清涼味が漂う。睡眠から目覚めたばかりのことで疲労感も消え体も軽い。そんな環境からか、行き交う散歩人のあいだに抵抗なく挨拶の言葉が飛び交う。

 「おはようございます」。わずかこれだけの言葉でぼくの気分は活き活きと高揚する。

 欧米を旅するとホテルやカフェの朝夕の時間、見知らぬ人たちが当然のように「グッ、モーニング」「グッ、イーヴニング」と言葉を交わす場面に遭遇する。鬱とした気分で塞いでいるときなど、挨拶の言葉を交わすだけで心晴れる思いを取り戻すことがある。人間として発露する挨拶言葉はコミュニケーション能力の第一歩だし、素朴で素直に吐かれる言葉ほどすごいと思う。

 だって、そうだろう。ふいに「おじいちゃん、おはよう 」とでも見知らぬ幼児や学童に語りかけられたらどうするか。どんなに無粋な人柄であっても、「ナニ、ナヌ ?  お、おはよう 」と、きっと応じてしまうはずだ。こんなダイアローグが成立すると気分はひとりでに弾んでくる。

 挨拶がわりあい苦手な日本人。IT社会でバーチャル空間に逃げ込む人々も多い。で、無表情な人々がときに暴走する。「だれでもよいから殺したかった」とはなにごとか。「大事件を起こしてめだちたかった」とはなにごとか。言葉を失うことは、人間をやめることだとぼくは思う。

 まったくノンセンスなのだけれど変に心を動かす話がある。絵本『おまえ、うまそうだな』も、そんなお話だ。

 墨色で太く縁取りされて橙・紅赤・緑・碧味濃い灰色の強烈な彩色のイラスト。登場する話題の事柄を全面に押し出して背景は大地と空のみ。ディテールを省略した大胆な構図。これらが読者をぐいっと引き込む迫力や人懐しさに親しみまで醸して不思議な魅力を生み出している。舞台は中生代白亜紀後期の大昔、恐竜の生息する時代。火山の麓で卵から草食竜のアンキロサウルスの赤ちゃんが誕生する。

 お母さんもお父さんも見あたらないのがノンセンス話の愉快なところだろう。そこに、暴君竜で名高い肉食竜のティラノサウルスが登場する。全長 13 、 14 メートルにもなるティラノだからイラストも見開きいっぱいに描かれる。で、ひとりぼっちで哀しそうにとぼとぼ歩く赤ちゃんを見つけた暴君竜は、思わず、「ひひひひ…、おまえ、うまそうだな」と発語する。その声を聞いた赤ちゃんは飛びかかろうとするティラノにあくまで素直で素朴に反応する。初めて出会う大人だから当然だろうか。ティラノの足にしがみつき何と「おとうさーん」と叫ぶのだ。

 「さみしかったよ、こわかったよ」と続ける赤ちゃんにすっかり面食らったティラノは、「なんで、おれさまが お、おとうさんってわかったんだ」としどろもどろに…。何だか不思議な受け答え。

 「 だって ぼくの名前、よんだでしょ。…」「な、なまえ?」「うん。『おまえ うまそう だな』って。ぼくのなまえ  ウマソウ なんでしょ」

 噛み合うような噛み合わないようなダイアローグの面白さ。きょとんとするしかないティラノの姿がいい。 ノンセンス話はときにリアルな意味を読者に与えるようである。不意うちの善意な言葉にとっさに返す言葉を持たないのがぼくらだが、案外、思いもかけぬ善意の言葉できりかえすのが人の常ではないか。勘違いも間違いも善意で素朴で身を預ければなーんにも怖くない。

 万事がこんな調子でお話は展開する。親子ごっこは、キランタイサウルスの襲撃を撃退したり、赤ちゃんの採集した食べたくもない木の実を食べたりと勘違いお父さんを演じるティラノの奮闘ぶりに読者の関心を収斂させていく。そんなティラノにアンキロの赤ちゃんの思いは「おとうさんみたいになりたいな」となる。いやぁ、参りますネ。ろくでもないと自分を認識しているティラノには切ない、切ない胸の内。だけれど、ちょいといい気分…。

 お話は、遠景にアンキロの赤ちゃんの両親をどうやら見つけたティラノが細工して赤ちゃんを親元に戻すシーンで終わる。これまた、ジーンと胸に切なく迫るではないか。

 テキスト展開とは別に、イラスト地に直接書かれた、ドドドドド ドドドド…、パキパキパキ、ドロドロ、ガオーン、バッシーンなどという擬音の数々も素直に童心を打ち鳴らしてしまう。粗けづりではあるが、ノンセンス話がいつのまにかリアルな感受性を惹き出す魅力いっぱいの絵本の創り手にまずは脱帽しなければならない。

『おまえ、うまそうだな』 ( 宮西達也 /作 ポプラ社 )

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