絵本・わたしの旅立ち
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再び出会いの二つのかたち

 子どもたちと絵本との出会いに、二つの基本的な「かたち」があるとは、本紙前号で申しあげました。

 それは、家庭で親子だけに限って楽しむというだけのことではなくて、学校や幼稚園、また地域の子ども会など、集団に向かって「読み聞かせる」ということが、近年急速に拡がり、むしろ一般の人たちの話題やマス・メディアの場合でも、そういう対・集団のほうが中心であるかのようになりました。

 それは二つの読書運動が、盛大になった証拠でもあります。これは絵本の普及や関心が濃密になったわけでもありますが、かといって喜んでばかりにいられない問題が、だんだん現れはじめたのです。

 その行き違いというべきものは、前号でも触れたように、家庭での本来の読書と、対・集団での出会いとを、まず区別することから始めなければならないにもかかわらず、ただ単に同じく絵本なので混同されはじめてきたわけです。

 例えば、二つの絵本のえらび方や選択の基準が全く同じであるという初歩的な認識が、全く無視されていることです。あまりに無神経ではありませんか。

 勿論、対象となる子どもたちは、物理的には当然、同じ年齢です。だからといって理解力や興味の発達が全く同じレベルであると、決めてかかっていいものでしょうか。

 家庭では、わが家という環境、家族の構成、読む方々の能力が特別なもので、集団の多くの子どもたちとは微妙に違う筈というのはあたりまえでしょう。

 つまり子どもたちは本来、他者と共通性を持ちながらも、個々の家庭の諸条件に即した特殊な性格を持つものなのです。

 だから絵本の内容を決める際にも、子どものニーズや興味の発達に即した点から始めたいのですが、家庭での子どもたちは、たとえ個性に生まれつき、偏りや重い偏向があっても家庭は強固な城です。外部からの刺激で突如変えられることが少ない筈です。やや長期にわたってわが子のために慎重に選択ができます。

 一方集団相手の「読み聞かせ」では、個々の子どもたちの特殊性に一々対応する軽業めいたことが出来ないのが、普通ではありませんか。だから、集団としての共通性をさぐりあててそれに即さないわけにはいきません。しかも不特定な初めての集団というものは、地域の条件やスタッフの質によって、受け手として不安定な事態になりやすく、読み聞かせる方から聞かせる時間や場所、その他以前の読書の経験量などによって具体的にその場の展開にあわせ、次々に変更しなければならない事態も起こりやすく、対応するのにとてつもない大量の専門性が必要になる場合もあるものです。

 更に技術的にいうなら、家庭では一対一が基本です。語り手や読み手は、毎回同じ相手に聞かせているのですから、物語の展開やスピードを、最も深い配慮で調整できますし、むつかしい場面にめぐりあわせても受け手の様子や質問の内容によって、自在に自由な読書空間を構成できるわけです。家庭での読書こそ本格的な意味で、個々の対人関係が保てますから、絵本の内容を缺落することなく、完全に近いかたちで伝達が可能なのです。

 それに対し、対・集団の読書活動では、家庭での読書の優位性を認めねばならないでしょう。個々の性格を持つ子どもの個々に対応することは不可能ですから、集団としての共通性に頼らねばならないです。だから微妙な内容より、集団を構成する対象の全体にわたって理解されるもの、芸術性や難易度の高い感動を表面に出すのは、あきらめねばならないでしょう。また子どもたちが望む望まないとにかかわらず一方的に高みにたって与えるという事態に追いやられるのが普通です。ガッカリしてしまいそう。それで、職業的な教師はともかく、一般の子ども会を指導するボランティアではその調整がままならず、意欲をそこなうこととなります。ボランティアの技倆がなかなか上達しない原因も対・集団の活動がもつ限界、また集団、特に臨時の集団というものの性格によるものであると考えてもいいでしょう。

 この家庭と集団の絵本の伝達の方式は、学校教育と家庭教育。既製品としての市販絵本と手づくり絵本。財産としての絵本、また誤解される比喩ですが、食事の料理についていえばレストランと家庭料理との違い、といっていいかもしれません。

 なおこの上に厄介な問題があります。家庭読書はともかく、絵本には単なるお話だけでなく、絵という怪物が加わるという要素を忘れてはなりません。

 集団教育の必須条件がその上に「同時に多数に同じ内容を伝えなければならない」という点でも、家庭読書の際の絵本の絵と、集団で享受する絵に関しても当然様式や性格が違ってきます。特に集団向に際しては、集団のどの地点から眺めても、一枚の絵が完全に同じく伝達しなければならない宿命にありますが、それは具体的にどういうことでしょうか。私たちは、単なる経験だけに頼るだけでなく、実際に測ってみなければならないくらいはしなければならない責任があるようです。(この項つづく)


「絵本フォーラム」67号・2009.11.10


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