絵本・わたしの旅立ち
絵本・わたしの旅立ち

絵本・わたしの旅立ち

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生涯、感動できる絵本を

 わたしは子どもたちと絵本を楽しむときには、「与えるものではない。絵本を仲だちにして、共に経験を同じくし、更に共に成長していくものでなければならない」と、言ってきました。

 それで大人が高みにたって、恩恵的に「読み聞かせ」などという言葉を使うのは、大人の思いあがりであるかもしれませんネ。

 ご承知のように、わたしがこちらのNPOから出版していただいた『絵本・わたしの旅立ち』という一冊は、ただそのことだけを全編にわたって書いていると言っていいくらいです。

 共に経験を共有すると申しても、勿論全く同じ形ちではなく、大人は読み手として、子どもは受け手・聞き手として同じ一冊の絵本を味わうことでもあります。

 だから読み手の仕事は、子どもと、どんな絵本を楽しむか、つまりどんな作品を選ぶか、ということから始まります。

 世間の絵本には、ご丁寧にも「読んでやるなら×歳、じぶんで読むなら×歳から」と、逆に絵本の方で指定しているのが普通ですが、一応の目安とはなりますが、受けとる子どもには、環境や発達によって当然、異なる興味や読解力、読書歴に差がありますから、やはり容易なことでないようです。

 実際に下読みして感動できなかったけれど、テレビや新聞、何々先生のブックリストに×歳向きとされているから、少々おかしいものと思っても、それをいかに巧みにステキなドラマチックな読み方をして見せても、子どもは意外に敏感ですから、大人のウソをチャント見ぬいて、わざと面白がっているようなふりをしてくれる場合もあって、絵本好きのお母さんが途惑って苦笑しているのに出会ったこともありますネ。

 そういうこともあって、読み手は必死になって、自分がまず感動できる絵本に出会うことから総ては始まります。そのためにも図書館や家庭文庫を廻って、単に情報だけに終わらずに下読みを重ねて自信をもって評価できる絵本を選べたら、わたしたちの仕事の半分は成功したと言えるでしょう。

 そういう優れた絵本は、それなりに相当あるものです。それで自分のところで、どれだけ用意できるか、わが家だけの宝の絵本リストを作っておけば将来条件に即して、たちどころに役立たせられるというものです。

 それは、わたし一人のためだけでなく、わが家代々次々に書き足していけば、わが家代々のヒミツの家宝となるのではありませんか。

 以上いつも語っている主張を、繰り返したに過ぎませんが、ではお前の宝帖はどうなのと聞かれたら、やはり答えなければならないようです。

 わたしは、ひとにすすめながら自分自身のブックリストは、テストされるみたいで表に出さないことにしてはいますが、しばらくは宝帖のなかから不作意ながら、作品をとり出して紹介し、責めを果すことにしていきましょう。

〈その1〉村山籌子「ごぼうとだいこん」 1938 年 2 月コドモノクニ

 兵隊から戻って戦火の匂いをまだ残しているとき、たまたまこの作品を読んだときの衝撃を六十年たった今でも、ありありと思い浮かべる小品ですが、村山知義や山口マオの絵を眺めては、単なるおはなしでなく、やはり率直に絵本らしい絵本とすべき作品です。

 …ごぼうと大根が同居しているところへ大根宛の手紙が届く。ごぼうは悪いこととは知りながら封を切って読む。手紙には次の文面。

 だいこんくん、うわさによると、きみはだいこんのくせに、ごぼうといっしょに、すんでいるそうじゃないか。ぼくなどは、あのうすぎたない、ちゃいろのけだらけのかおをみただけで、きもちわるくなるよ。すぐにこっちへきて、ぼくたちと、いっしょに、くらしたまえ

 白井大根

 同じ大根からの友人らしい手紙だが、それを内証で読んだごぼうの心の動きや揺らめき、対人関係の変貌など表層的に描かれていると思われますが、反復して何度も読みなおすと、籌子の人間観、とりわけ人間の奥底にある深い業(カルマ)の葛藤の中で人間存在の歪みなど、人間学や宗教学以上の具体的な何かが、わたしたちに訴えます。子どもたちも現時点では単なるオハナシとしてやり過ごしても、生涯のいずれかの時機に対人関係の輪に傷ついたときなど、ハッとごぼうの惑いを思いだし、人生の経験が深くなればなるほど、何らかの得難いものに出合える筈です。そんな宝石のような作品なのです。

村山籌子作品集 絵・村山知義、JULA出版局 ㈰リボンときつねとゴムまりと月㈪あめがふってくりゃ㈫川へおちた たまねぎさん

村山籌子おはなし集 絵・山口マオ、福音館書店 かさをかしてあげた あひるさん


「絵本フォーラム」73号・2010.11.10



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