えほん育児日記
〜絵本フォーラム第74号(2011年01.10)より〜

自分の信じることを、身近な人々と共に

吉澤 志津江(絵本講師)

 南米チリでおきた鉱山落盤事故、奇跡といわれた救出作業が記憶に新しい。それをめぐる数多の報道の中で、「救出された 33 人の中に詩人と呼ばれるようになった作業員がいる」という新聞記事が私の目を引いた。その作業員は、地上の家族に、いくつも詩を書いて送ったという。彼を知る家族や友人は、事故以前は詩を書くような人ではなかったと口を揃える。けれど彼は詩を書いた。「書かずにはいられなかった」と彼は言う。極限の状況の中で、言葉が口をついて出てきたという。

 その記事を読みながら、私は一冊の絵本を思い浮かべていた。『フレデリック』(レオ・レオニ/作、谷川俊太郎/訳、好学社)、副題に「ちょっとかわったのねずみのはなし」とある。内容は以下の通りだ。

——牧場の石垣に住む5匹ののねずみ。冬に備えて食べ物や藁を集め始めた。4匹が昼も夜も働く中、フレデリックと呼ばれる1匹だけは働かない。仲間が「君はなぜ働かないのか」とたずねると、フレデリックは、「おひさまのひかりや、いろや、ことばを集めている」と答える。だが、役に立たないものを集めるフレデリックに、仲間の目は冷たい。そしていよいよ冬。はじめのうちは、住み家は暖かく快適だった。が、やがて食べ物は底をつき、藁もなくなる。凍えそうな灰色の石垣の中で、のねずみたちは、おしゃべりする気にもなれない。そのとき1匹がフレデリックにたずねる。「君の集めたものはどうなったんだい」と。フレデリックは、あつめておいた、光や色を、みんなに伝える。目を閉じてフレデリックの言葉を聞いていた4匹は、まるで魔法にかかったように、すっかり暖かくなり、きれいな色さえ見る。そして、フレデリックが、あつめておいた言葉をしゃべると、みんなは拍手喝采、「おどろいたなぁ、君って詩人じゃないか」——絵本はここで終わる。

 もしフレデリックの集めたものがなかったらと想像してみる。気持ちは冷たくなり、仲間割れ、あるいは家出…。おそらく、5匹揃っては春を迎えられなかっただろう。

 言葉はエネルギーだとつくづく思う。

 今、小さな人たちに、年嵩の者が、肉声で語りかけることが大切だといわれる。生の声には、ただそれだけで力があると。人生を肯定する言葉、世の中を認める言葉、あなたの存在を喜ぶ言葉をかけることが大切だといわれる。そして、読み継がれてきた絵本や児童書こそ、それらの言葉の宝庫に他ならない。そこには、子どもたちが、大人から自分たちに語ってほしいと願っている言葉が詰まっている。だからこそ、子どもたちは、未来の子どもたちのために、それらの作品を残してきているのだろう。

 出版不況といわれる今、絵本の出版はなぜか衰えない。新しいもの、子どもに受けるもの、くすぐりの入ったものなどなど、「どうしてこんな絵本が出版されちゃうの」と思いながらも、読み聞かせボランティアや図書館員までが、そういった絵本に惑わされ手を伸ばしてしまいがちな現実がある。生きるためのエネルギーとしての言葉を湛えた作品、子どもの心の奥深く届く作品を、選んで残すことの責任を、とりわけ公共図書館という職場に身をおく人間として日々感じている。

 周りをみれば、不満や不安はきりがないけれど、今、私に出来ることは、もどかしくても、力不足を感じながらも、この場で、自分の信じることを、身近な人々と共に、身近な子どもたちのためにやっていくことしかないのだろう。「絵本講師」「図書館司書」「読書アドバイザー」、これらの肩書きは、名刺に印刷はできても、いずれは剥がれてしまうものだ。剥がしたあとの自分自身そのもので勝負しないと、私のすることは信じてもらえない。自ら手を挙げて関わり始めた、子どもと本を結ぶ活動だが、その深さ厳しさに恐れおののいている。

(よしざわ・しづえ)

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