絵本・わたしの旅立ち
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たまには日本とわが生涯を考える

 お互い、あまり偉そうなことは言えませんが、子どもたちにかかわる仕事をするときには、やはり品格を崩してほしくありません。

 特別に着飾る必要はありませんが、テレビに出て演技をするような騒々しい品のない格好では困ります。そんな世界とは全く別なキチンとした端麗さを期待したいものです。

 不思議なことに、日常の立居振る舞いが年頃にふさわしい聡明な女性なのに、子どもたちの前にたつと、とたんにチャラチャラした乱雑な雰囲気に変わる方に時々出会いますが、これは、本当の楽しさということを誤解して、「子どもたちには、よりテレビ番組のようなお笑いサービスをしなければ……」

 という思いが募るのでしょうか。いつか町内の児童公園で、たまたま街頭紙芝居の上演や、また油断できないのは、腹話術などが子どもたちに受けて拍手喝采。その現場の有様に刺激をされた末え、見様見まねで、それらしく演じているのでしょう。平気で下品なアラレもない仕草を覚えて、恥じようとはしなくなるのではありませんか。

 わたしが恐れるのは、そういう子ども仲間にヤンヤと受けるだけで、品格に欠ける荒っぽいチャンスや展開に慣れると、そんな方法ばかりが上手になって、本来子どもの素朴な文化に触れる原点——つまり例えば母親と一対一で向きあい、静かに想像力を深く広く豊かに造影していく自然の力と、喜びと知恵、を身につける努力を忘れ去ってしまうのではありませんか。大人も子どもも同じようですが——ところが読み聞かせの集りなどでは、そういう現象はアチャラカの技術をマネるのは、一段と達者な大人がその傾向をアフリたてるようです。

 しかも大人がアフリたてるので子どもが笑い声をたてると、みずから「子どものあつかいが上手」とうぬぼれてしまうのに、あきれます

 そういう才能のある人たちはとりわけ流行に敏感なようです。

 その証拠に、話し手が必ずしも外国の作品を演じているわけでもないのに、子どもたちは、「外国のおばさんの話、日本語が上手だった」と、とんでもない受容の仕方をしたりしていますが、笑えません。

 しかし、これは日本人の外国人かぶれですまされるものではなく、テレビのアニメや、マンガのお話の経験を、歪めて増幅しているのかも知れません。

 例えば、日本の社会での女の子の命名に基準を思い浮かべていただければ、二重性が更に明らかになりそうです。エリカ、セシリア、サリー、…百花繚乱、世界各国にネタがありそうですが、発展途上国も当然排除されないでいますから、ご苦労な趣味です。それが国際的などと思って、しぐさまでお笑いのタネにしないでほしいものです。そういう家に限って、パパやママと呼ばせて自分でも変に思っていないようです。

 わたしは嘗て(三、四十年前か)日本語には、おたあさま、おでえさまから、父上母上、お父さんお母さん、とうさんかあさん、とうちゃんかあちゃん、おとっつあんおっかさん、おとんおかん……まだまだ不思議なバリエーションが存在するのに(少々階級性が残っているのが耳障り)やはり日本人は国際的というより、無国籍と呼ぶにふさわしいものより、伝統的な日本名を使ってほしいと思います。女性サッカー撫子の皆さん、やはり偉いですね。

 またこれもずっと前のことですが、何となくアホらしくて「パパって、お妾さんがダンナを呼ぶ言葉、ママとは西洋居酒屋のおカミさんのことではないか」と戯れに本に書いたら、四方八方から叱られたことがあります。ほんとにバカバカしい。

 どうしてわたしが早くからこんなに執拗かというと、ふだん教室でないところで、ふだん遊びもしない近所や他の地区の男女の子どもたちと同じく、同じ話を聞くという経験が如何に珍しく印象に残るもの、それは年がたつに従っていよいよ鮮明に思い出して、集団で聞いたのにかかわらず、個別的に、自分ひとりの記憶となって老いていくのが人生だからでしょうか。

 すみません。この時代の子どもたち!その子どもたちに、楽しい読み聞かせをつづけて下さる大人の方々。世界的に信用を失わないためにも、日本語で出版される日本の絵本を大切にして下さい。

 高浜虚子という俳人は〈去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの〉という絶唱を残していますが、「棒の如きもの」とは、わたしたちへ何を指しているのでしょうか。


「絵本フォーラム」75号・2011.03.10



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