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わたしが読みました(書評) |
まるごとえんものがたり |
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年齢を重ねると身近な人の訃報に接することが、若いころに比べて格段に多くなる。 亡くなった方それぞれに対する思い出があり、弔いの場数を踏んだからとて、決して慣れるものではない。しかし大人は、なにかしらのこころの準備をしてみたり、『ああ、おばあちゃんは大往生だったね』などと自らを納得させてみたり……。そうやって、こころの中にたまった悲しみをどうにか処理しようと努める。しかし、それはあくまでも大人の方法。こころのそこから、納得ずくの死など、今までに私は経験したことはない。 さて、前作『おかあさんもようちえん』 (梅田俊作・佳子 /さく、NPO法人「絵本で子育て」センター) でも舞台になった<まるごとえん>では、相変わらず人間を、そのまま受け入れる土台がそろっている。それは、ゆたかな自然と、人のこころ。 子どもたちは、休む間もなくからだとこころをフル回転させながら遊んでいる。 しかし、穏やかなはずの<まるごとえん>の部屋の中から、普段とは違う穏やかならざる音が聞こえる。床いっぱいに敷かれた新聞紙に足型をつけながら跳ね回るマモルくんの足音。けっして楽しんでいるわけではない、乱暴なまでに跳ね回るその音がマモルくんのこころの響きのように聴こえるのだ。 だいすきなおじいちゃん『たかまるじいじ』を突然、亡くしてしまったマモルくん。その小さなこころには到底、理不尽な死を受け入れることができない。きっと、マモルくんのまわりの大人たちは、大抵がそうするように慰めのことばをかけ、こころを強く持つようにはげましたであろう。 しかし、マモルくんのこころの扉は硬く閉ざされたまま。何をどうしてよいのやら自分自身でも答えを見つけることができずに、ただ跳ね回るばかりである。まるで、閉ざされたこころの中で地団駄でも踏むように……。 さて、ここで私(筆者)自身が体験した<まるごとえん>について、少しお話ししておきたい。 私が、<まるごとえん>こと徳島県阿南市の『自然スクールTOEC』を訪れたのは、夏もまだ盛りの時期だった。長いあぜ道をすすんで行くと、絵本そのまま、たんぼのなかにぽっかり浮かんだ<まるごとえん>が現れる。夏休みの特別プログラムの実施期間中ということもあり、実際に泥にまみれた子どもたちにお目見えすることはなかったが、今にもはだしになって片足を突っ込みたくなるような、ほどよいどろんこが待機していた。園長の伊勢達郎氏の案内で園のなかをしばし探索させていただく。しかし「園のなか」とは書いてはみたものの、いわゆる園庭や園舎とは、ちと趣を違える。先ほどのぬかるみに始まって、どこまでも走り回れそうな広大なたんぼ、大きく強く「登ってくれ」とばかりに枝を広げる木、ひんやりとこころに寄り添うようなやさしい木陰、見るからに魅力的なお風呂。ただ、広いだけではなく、こころを解き放たれるような広大さ。冷たくあまい井戸水を口に含むと、たちまち気持ちが軽くなるようだった。 「まるごとえんでは いまやりたいことが いちばん!」 このすばらしい環境に加え、やさしい大人たちの眼差しに見守られながら子どもたちは豊かなこころを育んでいくのである。 さて、そんな懐の深い<まるごとえん>に吸い寄せられるようにやってきたのがおじいさん。普段は少し窮屈な生活を強いられているおじいさんにとって、<まるごとえん>に導かれるのは、ごく自然な流れのように感じられる。 マモルくんとおじいさんとの出会い。大人たちがこじ開けることのできなかったマモルくんの心の扉に変化が見られてくる……。 大人も子どもも<まるごとえん>にどっぷりつかって、こころの扉を開け放ってほしい。 マモルくんとおじいさんの、そんなステキな物語です。 (だいちょう・さきこ) |