たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第83号・2011.07.10
●●72

探し求める心やその過程に精神の充足が…

ぼくを探しに』

 週日を家で過ごすことが多くなったぼくの朝夕の散歩時間は長くなり住処の四方を散策する。そこで、これまで気付かなかったが散歩道に散在する小さな神社やお寺に出会う。そのたびにぼくは神社で手を打ち、お寺では合掌する。意味はないが気分は悪くない。ぼくは右膝左踵の鈍痛を我慢して散歩するが、すり減った骨による鈍痛は加齢によるものと医者はにべもない。けれど、ぼくは加齢による肉体老化を案外素直に認めている。

 ところで、ぼくが手放しで喜ぶ気になれないのが寿命の話。平均寿命82・9歳で世界一の長寿国を誇る日本だが寿命を平均で語るのはおかしくないか。人それぞれだろうし、ならばとぼくの寿命を75歳あたりに想定する。で、散歩の道すがら、想定没年から時を逆に刻んで余命7年有余をどう生きるかと想いをめぐらせるのである。没年までに何ができるかと問うてみると驚くほど時間はない。目標たてて生きることなどこれまでしてこなかったのだから、あれこれ想いをめぐらせてもどうなるものでもないだろう。来し方を振りかえってみても、ぼくは自己を個的に捉えるようなことをしていない。人のため世のためと法螺を吹くつもりはないが眼前の現実課題を解決することで手一杯だった。そのかぎりにおいて一心に励んだつもりではある。だから、自己を充足させたいなどという希望を余り持たない不甲斐ない来し方であったように思うのである。

 絵本『ぼくを探しに』の主人公「ぼく」の生き方はちがう。完全な自分を求めてあきらめないのが「ぼく」の生き方だ。「ぼく」の生き方を、ぼくの来し方はまるでできていない。「ぼく」はま〜るい丸で描かれているが完全な丸ではない、一部が三角状に欠けている。このかけらがないために「ぼく」はいつも楽しくない。だから「ぼく」は「ぼく」に足りないかけらを探しにという単純な物語。果たして読み手は素直に単純に読みとるだろうかと何度もページを繰りながら、ぼくは読み進む。
 物語は展開する。かけら探しに臨む「ぼく」は地平をころがり、海を泳ぎ、山に登る。かんかん照りにもめげない。「ぼく」はどこまでもかけらを追い求めていく。ところが不思議なことに、かけらがなくて楽しくない「ぼく」が、ころがりながら歌を歌い、みみずとおしゃべりし、カブトムシとは追いこし競争を楽しむのだ。……「ぼく」自身が「こんな愉快なことはない」と証言するのだからまちがいない。それどころか、ようやくぴったりのかけらに出会って完全な丸となった「ぼく」は楽しめない。よどみなく速く転げるようになった「ぼく」はみみずとおしゃべりすることも花の香りをかぐこともできなくなったのだ。完全な丸になったはずなのにこれはどうしたことか。……なるほどと、「ぼく」でないぼくはうなずく。そうだろう、完璧な人物なんているものか、いたとしたら気持ち悪いだろうし、当人だっていやになるだろうが…。
 さすがの「ぼく」も完全な丸は具合が悪いと思ったかどうか、「なるほど、つまりそういうわけだったのか」と、「ぼく」はかけらをそっと下ろして一人ゆっくり転がっていく。転がりながらそっと歌う、歌うに連れて調子はあがり、かけらを探す旅を再開する。……自分に足りない何かを探そうとする心やその過程に精神の充足があるというのだろうか。

 ぼくを不思議に魅きつける単純素朴で黒一色の線画。それを白い見開きにころがせて極上のシンプルな言葉ではこぶ作者シルヴァスタインは何を語ろうとしたのか。勝手な解釈でこの絵本を読んだぼくは、ぼくとほど遠い「ぼく」にはウーンとうなるばかり。だが、人品は異なれ快活に「ぼくを探しに」向かう「ぼく」を、ぼくは正直うらやましく思う。

『ぼくを探しに』(シルヴァスタイン/作、倉橋由美子 /訳、講談社)

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