たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第93号・2014.03.10
●●82

ストレス解消は、それぞれのできるかぎりの悪さをつくして…

『ほげちゃん』

 ソチ・オリンピック、五輪七回目という四半世紀をも代表選手として出場する伝説のジャンパー・葛西紀明、四十一歳が銀メダルを射止めた。レジェンドの冠にふさわしい偉業に日本中が沸く。何度となくテレビ放映される勇姿に、ぼくの目や耳も奪われる。清冽な刺激に頭のなかはすっかり空っぽになった。積もりに積もった憂さやらストレスまで葛西選手が晴らしてくれたらしい。

 それにしても…、なんだかおかしい。天候異変もだが、日本がおかしい。ぼくらが誇りとする日本国憲法をずいぶん軽く考える人々が増えてきた。先人たちが研究を重ねてきた祖国の歴史まで軽々に修正したがる門外漢の声も大きくなる。近隣諸国との溝は深まるばかり。欧米諸国からも「おいおい、どうした日本」とぼくら日本人を懐疑的に見るオピニオンが届く。
 世情もおかしい。社会格差はひどくなり、人々の日常にとんでもない異変がしのびよる。雇用不安は世を蔽い、親子や男女の凄惨な事件も後を絶たない。はなから結婚・子育てをあきらめる若者たち。ああぁ、どうしたニッポン、かくして人々は憂さにおそわれストレスを溜めこむ。
 イライラを募らせ、あれこれ悩んでストレスを溜めこむのは大人にかぎらない。子どもだっておなじだ。競争に駆り立てられてゆとりなし、家庭でも学校でもよい子を演じさせられる。遊びだって物質文化の寵児・デジタル・ゲームに囚われているではないか。小さな体の奥に今にも破裂しそうなマグマ…。よい子は決してよい子でなく、わるい子が本当に良い子だったりする。よい子はわるい子、といった詩人や臨床心理学者がいるほどだ。だから、少々悪さしてでも憂さやうっぷんを晴らす必要がありはしないか。溜まったストレスは解消させなければいけないのだ。

 絵本のほげちゃんはクマのぬいぐるみだが、ぬいぐるみだってストレスは溜まるらしい。
 「ほげちゃん」の本音はつぎのようなものだ。「ほげちゃん」は、クマなのにカバだといわれるし、なんだって「ほげちゃん」なんておかしな名前をつけるんだ。男の子のゆうちゃんが気に入ってくれて、いつもいっしょに遊んでくれるのはうれしいんだけれど…。でもね、ゆうちゃんの気のおもむくままに相手をさせられるのも大変なんだぞ。おかげでぼくは汚れっぱなし。
 「ほげちゃん」は家族の一員だって。よくいうよ。家族っていうのにお出かけには連れて行ってくれないんだぜ。汚いからだめだって。それはないだろう、汚したのは誰なんだって言いたいよ。ウーン、もう、怒った。そして、「ゆるせな――い! 」となる。で、ほげちゃんは同じ留守番役の猫のムウといっしょにほげちゃんのできるかぎりの悪さをつくすのである。「こんな家、ばっこばっこにしてやる」とソファーで跳ねとび、新聞やティッシュを散乱させ、ごみばこを蹴散らす。こんなもんじゃすまないと、ケチャップをまき散らし、冷蔵庫をこれでもかと荒らす始末。で、ケチャップまみれのほげちゃんはその重みで動けなくなる。
 まあ、ほげちゃんのできるかぎりの悪さとは、こんなものだろうか。悪さと悪事は決定的に異なる。子どもだってぬいぐるみだってストレスを解消しなければならない。悪事に至らず、それぞれのできるかぎりの解消法で。
 作者が、ぼくのような読者の存在まで考えていないことは明白だ。
 だから、物語の結末は、帰宅した家族から「ほげちゃんがたいへん」とていねいに洗ってもらい、涼しい窓外に吊るされた「ほげちゃん」が「楽しかった」とつぶやくハッピーエンドで閉じる。パパに怒られる役割を猫のムウが負わされるオチまでついて…。それで絵本はいいのだと思う。(おび・ただす)

『ほげちゃん』
( やぎ たみこ/作、偕成社 )


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