小沢俊夫の昔あったづもな  

第一信

 昨年12月6日に成立した「特定秘密保護法」は国民の首をじわりじわりと絞めていくことになる危険な法律です。日本人は1945年8月15日の敗戦まで「治安維持法」や「国家総動員法」によって苦しめられて来ました。ぼくには、あの日本がまたやってくるという強い危機感があります。安倍首相が選挙で唱えた「日本を取り戻す」とは、そういう日本のことだったのです。
 ぼくは2014年4月に84歳になりました。戦後に生まれた人にとっては、敗戦以前の日本がどんな国だったか、ほとんど想像がつかないでしょう。そこで、ぼくが体験した、そして実際に見た、そして聞いた日本のことを「通信」として広く読んでもらおうと思いたちました。

日本はこういう国だった 戦後に生まれたあなたに

 この「通信」を読むほとんどの方は、生まれた時にはもう現在の平和憲法があり、自由で民主主義を標榜する日本になっていたであろう。今の平和憲法を獲得するまでの、暗い日本のことは知るはずがなく、今の日本が当たり前と思っていることだろう。
 だが、今の平和憲法を獲得するには、約3百万の日本人が命を落とし、約3千万のアジアの人が命を落としたことを忘れてはならない。そして、日本は暗い秘密国家だったことを。
 ぼくは昭和20年8月15日まで、東京の陸軍第二造兵廠で神風特攻隊用の爆薬を作っていた。戦争中の日本の雰囲気にもろに呑み込まれて軍国少年だった。当時日本国民は戦争についての真相はまったく知らされず、日本は勝つものだと信じ込んで、ひたすらお国のために働いていたのだ。大事なことはすべて秘密のベールの中だった。日本海軍がミッドウェイ海戦で壊滅的打撃を受けたことなどまったく知らされていなかった。その後の敗戦のプロセスについても、きれいな言葉でごまかされていた。
  後で退却だったことが分かったガダルカナル島の戦況については「戦略的転向」と報じられた。ビルマ(今のミャンマー)戦線の敗戦も「戦略的転向」だった。アリューシャン列島のアッツ島での全滅は「玉砕」と言われた。もちろんそれは「全滅」だと想像できたが、国民はあからさまにそうは言えなかった。そのうちにアジア各地の前線での「玉砕」が報じられるようになった。国民は不安を感じ始めたが、「大本営発表」は「皇軍は赫々たる戦果を挙げている」とか、「敵を殲滅した」とか、「最後の勝利は我にあり」というばかりだった。そして、極めつけは「そのうちに必ず神風が吹く」という言葉だった。国民はみんなそれを信じさせられた。笑ったら国賊と呼ばれた。
 だが、昭和20年3月10日のいわゆる「東京大空襲」の時も、5月25日夜の東京西部地区(中野、荻窪、阿佐ヶ谷方面)の大空襲の時も、吹いたのは神風どころか、火災による大風で、そのためにあたり一面、完全に焼け野原になったのである。ぼくは立川でその空襲を経験したのだが、東の空が真っ赤に焼けて、新聞が読めるほど明るくなった。
 情報は大本営発表しかなかったから、軍の高官や政治家、官僚、有力者たちが陰で利権をあさったりピンハネしたりしていてもわからなかった。それがわかったのは、敗戦後、いろいろな暴露雑誌が出始めてからであった。暴露されてみると、秘密裏に行われていたことは、ひどいものだった。
 ぜいたく品追放とか、精密機械製造に必要と称して国民に無償提供させた貴金属類は、軍部の高官や政治家たち、官僚たち、地方のボスたちがポケットに入れてしまったということだった。戦車製造のためと称して供出させた鉄類の多くは、放置されたまま錆ていったということだった。
 それらのことが秘密裏に行われていたということは、一般国民にはそれを知る権利はまったくなかったということである。今回成立した「特定秘密保護法」でも、国民の知る権利については、「配慮するよう努力する」程度のことでごまかされている。知る権利がないということは、知ろうとしたら犯罪になるということである。
 戦争中、「壁に耳あり、障子に目あり」という言葉が国中に徹底して言われていた。それは、どこにスパイがいるかわからないから、発言に用心せよという意味で言われていた。だが、当時、鎖国状態の日本国内のいたるところにスパイが潜んでいるはずはなかった。本当の意味は、国民に、「何かを知ろうとすることはやめろ」という意味だったのである。「目も耳もふさいでいろ。何かを知ろうとしたり、考えたりすることをやめろ」という意味だったのである。
  では、それをやめて何をしろというのか。「ひたすら、政府の言うことだけを信じて、黙ってついてこい」というのである。言論の自由の正反対の考え方である。「特定秘密保護法」はそれをめざしている。なんとしても廃止しなければならない。

首相の靖国神社参拝がなぜ問題なのか

 安倍首相は「国のために命を捧げた英霊に参拝することは、どの国のリーダーもすることだ」と述べていた。これには隠した部分が二つある。第一は、靖国神社には第二次世界大戦における日本の戦争責任者が合祀されているという事実である。
 第二は、靖国神社に祀られている人は、国のために命を捧げた人すべてではないし、祀られていても、祀られることを遺族が拒否して、訴訟を起こしている場合もあるのである。つまり、息子、あるいは夫は戦死したが、そもそも無理矢理かり出されて兵隊になったのであり、被害者である。それなのに国家が勝手に英霊に仕立て上げて、靖国神社に祀ることは遺族として耐えられない、という訴訟がある。韓国人からも訴訟が起きている。そういう無念の思いを無視して、「国のために命を捧げた英霊」と、美しい言葉でかたづけることは、一国の首相として極めて無責任である。
 歴史的には、靖国神社は、戊辰戦争での官軍の戦没者のみを祀った鎮魂社だった。現在から見れば、戊辰戦争の官軍と賊軍はどちらも近代日本を作る上での戦いを戦ったのである。しかし、賊軍の死者は祀られていない。そういう歴史の事実を無視して、「国のために命を捧げた英霊に参拝する」というきれいな言葉で、素直な国民をごまかそうとするのは、全く下品で悪質なやり方である。
 しかも、このような一般的な表現で言えば、事情を知らない外国の記者などは納得してしまうかもしれないという、悪知恵(浅知恵?)も働いていたかもしれない。
 外国の目が問題にするのは、やはり第一の問題である。敗戦後、1946年から48年まで、2年間にわたって東京裁判が行われた。アメリカ、イギリス、中国、ソ連、などの戦勝国が、日本の戦争指導者を裁いたものである。ぼくは中学3・4年生だったが、戦勝国から見たら「戦争指導者」だろうが、日本国民から見たら、国民にあの非惨な戦争を強いた責任者なのだから、東京裁判とは別に、国民が開く「戦争責任者裁判」があるべきだと、ずっと思っていた。が、世の中はそんな話には全くならず、東京裁判だけでことは終わってしまった。今でも残念だし、あそこで国民が責任を追及しなかったことが、今でも尾を引いていると思っている。
 何故なら、国民から見ての「戦争責任者」なのに、戦勝国のみが裁いたので、日本国民から見ての「戦争責任」は曖昧になってしまった。しかも、天皇の戦争責任も問わなかったので、日本国民にとっては「戦争責任者」はいなくなったのである。そういう意識の中では、東京裁判が日本の「戦争指導者」として死刑にしたいわゆるA級戦犯は、日本から見ると、戦勝国が勝手に決めたもので、「戦争責任者」ではない。「お国のために命を捧げた英霊」なのである。つまり、不当な裁判による被害者ということになる。 
 だが昭和天皇は、1978年にA級戦犯が合祀されて以後、一度も参拝しなかった。天皇の精一杯の意思表示だったと思うが、政府と官僚は天皇の意志を無視し続けた。
 「新しい教科書をつくる会」や石原慎太郎など国家主義的な人たちにとっては、東京裁判こそ不当に行われたものだから、いわゆるA級戦犯が合祀されている靖国神社に首相が参拝するのは、当たり前のこととなるのである。
  だが、外国の目から見たら、全く別のことになる。あの大戦争を指導し、東京裁判で死刑の判決を受けた人間を祀っている神社に首相が参拝するということは、日本があの戦争を肯定していることにつながるのである。
 同じ敗戦国であるドイツの場合を見ると、その違いがはっきりわかる。ドイツでは、ナチスを礼賛したり、ヒトラーの書物を出版することは法律で禁じられている。ナチスが造った強制収容所があちこちにそのまま保存されている。ぼくは、昔ばなし大学のグリム童話研修旅行の最後に、ワイマール近郊のブーヘンヴァルト強制収容所に案内する。収容棟は焼き払われているが、広い敷地全体が何もない墓地として保存されているのである。そばには、「警告の塔」がそびえている。「あの過ちは二度としない」という自分への警告なのである。このような強制収容所はドイツ各地に保存、公開されている。
  ドイツで、首相がナチスの戦争指導者の墓地に参拝することなど、全く考えられないことである。過去の過ちと完全に決別したからこそ、ドイツは国際的に信用を獲得し、EU(ヨーロッパ連合)で主軸国になり得たのである。
 それに比して、日本はどうか。隣人である韓国とも中国とも、首脳会談さえできない状態に自分を陥れてしまっている。国際的に信用を得ることなど、とてもできない。
 こういう政治家に日本の政治を任せることはできない。(おざわ・としお)


小澤俊夫プロフィール

1930年中国長春生まれ。口承文芸学者。日本女子大学教授、筑波大学副学長、白百合女子大学教授を歴任。→筑波大学名誉教授。 現在、小澤昔ばなし研究所所長。「昔ばなし大学」主宰。国際口承文芸学会副会長、日本口承文芸学会会長も務めた。2007年にドイツ、ヴァルター・カーン財団のヨーロッパ・メルヒェン賞受賞。小澤健二(オザケン)は息子。代表的な著作として「昔話の語法」(福音館書店)、「昔話からのメッセージ ろばの子」(小澤昔ばなし研究所)など多数。

 

 

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