たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第95号・2014.07.10
●●84

くどいぞくどい、執拗さを楽しむ少年心とは何だろう

『ぐるんぐるん つむじかぜ』

ぐるんぐるん つむじかぜ 甥の祝儀で何年かぶりに宮崎へ。投宿先はシーガイア・シェラトン15階。梅雨間の快晴。窓外には太平洋がたくましく広がる一ッ葉海岸だ。負けるものかと広大な松林が白砂海浜を間にして正対する。自然のたくましさや美しさは、ぼくを強く揺さぶる。…変わっていない海に空。
 50数年も前のむかしむかしのこと、高校生だったぼくは何度か級友たちとここに足をのばしている。海に戯れ、砂浜を土俵に相撲に熱中した。松の大木の登りおり、林の駆け抜け。少年特有の素朴な快活さを持っていたのだと想う。何をしても楽しかったあのころ。
 無限の高さを誇示する南九州の紺碧の空、どこまでも大きくうねる緑青の海。これらと、近年喫緊の怪しい一翼に傾注していく憂うべき現況にろくろく抗えないままの我が身。埒の明かない対比をはかるが、彼空彼海のスケールに圧倒されて早々に降参。すると、不思議なことに気分が晴れてくる。
 どんどん変わる、とんでもない方向へ案外簡単に変わってしまうぼくら人間とちがい、空や海は悠久の心意気や容貌を容易には変えない。大地の時間は1000年、2000年単位でしか動かない。 そんな自然も、ぼくらを叱るように時折暴れ狂う。近年の天候異変、それがもたらす大災害の数々は何がしかの警鐘をぼくらに打ち鳴らしているのだろうか。
 初夏の一ッ葉海岸、ときに荒れたが、少年時代の記憶に怖れおののいたような想い出はない。ときに突風を走らせ砂塵を肌に痛く突き立てた海浜。雲ひとつない空を突然おそう辻風はつむじを巻いて急上昇しあたり一面を暗くする。ぼくらの学帽や脱ぎ捨てた学生服が空中に高く巻きあがるのは少年心には痛快だった。辻風はつむじ風であり、正しくは塵旋風だ。そして、塵旋風は竜巻とは似て非なる現象だと知る。  おなじ初夏のある日、アメリカの丘陵地だろうか。さわやかな日和に誘われるように人々の足が草原に向かう。  手回しオルガン弾きとサル、ふっくり旦那とほっそり奥さん、乳母と哺乳瓶を握り泣いているあかちゃん、娘と兵士やら、釣り人と魚、市長と奥さんに盗むものないかときょろきょろする泥棒など、いっときの癒しを求めて人々の心はウキウキ気分のようだ。総勢20組の30人と鳥獣魚9頭匹が登場の大草原浴が紙面ににぎやかに展開する。ひとり、ふたりの散策も一同に会せば大団円、清涼な空気を吸い込んで散策する多勢の気分が読み手にも快く伝わる『ぐるんぐるん つむじかぜ』の世界だ。
 傑作『どろんここぶた』で名高いアーノルド・ローベル晩年の作品は、多分に作者の遊び心がはじけたのだろう。少々荒削りに物語を奔らせている。だが、かえってローベルの人柄を覗けるようでもあり、ぼくには不思議にうれしい。
 コマ割りで紹介される登場者たちの珍妙多彩なプロフィールが絵本の雰囲気を前奏し、そこに黒雲を急襲させてつむじ風を発生させる。ぐるんぐるんと大きくうねり巻き上げるつむじ風。人も動物も何もかも吹き飛ばしひっくり返してしまう大騒動、そんなつむじ風も一瞬のことで、気づいてみればで再び壮快な気分に浸って、めでたくジャジャ−ンとなる陽気な単純な物語り。(語りはしつこくくどいのだが…)
 で、ふっくり旦那はほっそり奥さんを抱きしめ、ほっそり奥さんも旦那にしっかりしがみつく、といった塩梅で各組のかかわりを語るのだが、描出のイラストは一枚のみ。上から旦那を下から奥さんを描き込むトリックアートで構成する。目新しい描出ではないが、これでもかとあきれるくらい上から下から手法で20組すべてを執拗に描いていく。脳みその磨滅した大人たちはくどいと思うだろう。だが、子どもたちにとってはどうだろう。自然に遊び、素朴な少年心にはずんずんと絵が飛び込み、読みや語りが胸打つ展開となるのではないか。
 日本語に面白みをひきだす調子やリズムがもう少しあってよいように感じながらも、宮崎の空や海にいっとき浸ることができたぼくは少年期の素朴さをいくらか思い起こせたようで結構面白がっている。(おび・ただす)

『ぐるんぐるん つむじかぜ』
(ほるぷ出版 )

 

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