たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第98号・2015.01.10
●●87

仲良しの祖父と少女。ふたりは互いに何かを遺せるだろうか。

『おじいちゃんとのやくそく』 (光村教育図書)

おじいちゃんとのやくそく ぼくには三人の孫がいる。長女夫婦に一人、二人は長男夫婦の子どもたちでロンドン在の兄妹。二人には容易に会えないから、かれらの育ちざかりを、ぼくはうまく捉えられない。ぼくに会えない二人は不憫だろうか、いや二人に会えないぼくの方が不憫ではないか、とときに想う。で、今回も挿話は近隣市に住む長女の一人息子、つまり、Tのこと。

  Tは、今や十四歳の中学二年生。じわりと背も伸び、かつてのサッカー学童はテニス部レギュラーだ。テニス少年として放課後・土日と練習に励む。友人も増えて活動範囲も広がった。ぼくの子どものころより数等忙しい。

  土日あたり、部活のない日が生じると「じいじ、そっち行っていい」と電話がかかりTがやってくる。プールや戸外で運動に興じることもあるが、ぼくの体力が一気に落ちたため旅をのぞけば体を駆使して遊ぶことは少なくなった。それでも、ぼくにとってTといる時間は無条件に楽しい。彼は「じいじに数学や歴史を教わりに」と出かけてくるのだが、学習に時間を割くことはほとんどない。ぼくを訪ねる彼の魂胆の一つに、両親からうるさく諭されるモバイル・ゲームを存分にやれるというのがあるからだ。しかし、ぼくは、ぼくといる心地よさを彼が感じていると自惚れている。

  反抗期にさしかかる年頃であるが、Tは日常の出来事についてわりあい何でもぼくに話す。口は達者でおしゃべりだし、少し涙もろい。感心するのは友人の悪口などつゆほども吐かないことだ。涙もろさは正直さや優しさに通じるし、悪口吐かぬはコミュニケーションの第一歩だ。

 で、老い先ふわりと近づくぼくは、生きている間にTに何事か語れるようなものがあるかと考えてみるのだが、そんなものは何もない、なぁ、といささか情けないのである。ぼくは、少々怠けものだが生き生きと清廉に過ごす現在のTが大好きだし、逆に彼に非難されないように正直に生きるしかないとぼく自身が肝に銘じている。

  だいたい、世の孫たちは祖父母らからどんな影響を受けるのか。どんな言葉が彼らの脳裏に遺るのだろうか。ぼくにはよく解らない。しかし、「『おじいちゃんの木』を おじいちゃんじゃ おもうて、なんでも はなしてほしいんじゃ」ともらすおじいさんはいるだろう。生前なのか夢の中か、それを聞いた子どもが、そんな言葉を思い出し生きる力とするというのも、あっていい話である。

 絵本『おじいちゃんとのやくそく』は、主人公の少女のぞみちゃんが夢に出てきた祖父の言葉を「約束」として受け取る物語だ。作者の石津ちひろ自身の父と娘の交流を作品化したというから、作者自身を取り巻く人々の人柄もしのばれる作品だ。

 のぞみちゃんは大の仲良しだった祖父を突然に失う。で、友だちと一緒にいるときでさえ、祖父を思い出すと涙する。ある日、夢の中に祖父が現れる。そして、「おじいちゃんの木をおじいちゃんじゃ思うて、何でも話して欲しいんじゃ。おじいちゃんもうれしいし、のぞみも元気になれるぞ」と頼まれる。おじいちゃんの木とは、のぞみちゃんが生まれたときに、祖父が植えたけやきのことだ。祖父と約束した彼女は、うれしかったこと、苛められたこと、何でもけやきの木に話しかけることになる。そこで、天国の祖父が褒めてくれたり励ましてくれたり…。まぁ、児童書でよく語られるいいお話しになってしまうのだが、作者はそんな教訓臭さを抑制して作品を傑作に結ぶ。

  のぞみちゃんがマット運動の手本を演じたとき、「鉄棒は全然できないくせに…」と隼人くんから横やりをいれる。からかわれて泣いちゃったという彼女の報告に祖父は「だれかがのぞみのことをからかうときはのう、二つのうちのどっちかなんじゃ。そいつが何かでむしゃくしゃしとるか、のぞみのことが好きでたまらんか…。怒ったらいかんぞ。笑ってみせるんが、一番なんじゃ」とやわらかく語る。ぼくの学童期、父が同じようなことを語ったことがあったなぁと想い出して、「そうだぞ」とうなづく場面があったり、「そうしよったら、そいつはのぞみにはかなわん思うて、もうからかわんようになるぞ」の言葉に納得したり。

  「ねえ、おじいちゃん。あたし、にっこり笑えるようにがんばるね」とは、どこまでも可愛いのぞみちゃんのお話しである。

                (『おじいちゃんとのやくそく』石津ちひろ:文 松成真理子:絵 光村教育図書)

 

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