私的絵本年代記

古川マサエ  これは、なかなか絵本から卒業しきれないおばあさんの絵本にまつわるメモ書きです。
 65年の歳月の中でいつまでも朽ちずに立っている、詩人の長田弘さんのことばを借りれば(My favorite)な絵本に挨拶をしなおす作業を私的絵本年代記としました。
   ● ラ・ポール前原館長 古川 マサエ ●

*第1回*
白いお船が二つ三つ


 いなかの乗合自動車の停留所の孫娘の得意技は、逆さだろうが何だろうが絵本をささげて、来るお客毎に、絵本の文章をそらんじて見せることだったと、後年祖父母から繰り返し聞いたことで、セピア色の祖母の写真の中に絵本をさかさまに持った自分が写っているような錯覚を持ちつづけています。
 『白いお船が二つ三つ』の絵本は多分講談社の厚紙の絵本だったろうと思います。母の話では、祖母の実家からのお土産はいつも講談社の絵本だったということですから。田舎ではとても手にすることのできない絵本に囲まれて幸せな幼年時代だったのでしょうが、私の記憶は、その厚紙の切れ端にのこるさるかに合戦の猿の絵だけです。私の5歳の年に太平洋戦争が始まり、子どもの本どころの話ではない時代のなかで、野山の草や木や虫たちが遊び相手をしてくれました。夜は布団の中で祖父にお話をせがんだのでしょう、定番の『こぶとりじいさん』『はなさかじじい』『ももたろう』など覚えているのは、絵本を通してではなく話し言葉としてのそれです。また冬になると火鉢の周りで、無口な農夫の父親が、なぜだか、こわーい話をして、子どもたちが怖がるのを楽しんでいました。その話は、子ども心に鮮明な印象を残して、今でも父の語ったように語ることができます。(そのようにしか語れません)後年、民話の中に種があることが解りました。「おそばのくきはなぜあかい」と里に下りて子どもを捕って食う「やまんば」と飯を食わずに働く女房が実は大蜘蛛であったという「蜘蛛女房」がそれで、父は自在なまぜこぜ話にしていたのでした。
 こうして幼年時代を振り返っていて気がついたのですが、父よりもはるかに書物に親しかった母親(こちらも死ぬまで田畑で働いた)からは、語り言葉としての物語を記憶に残るものとしては受けとっていないということです。長女に生まれて母には一番身近にいたはずなのにふしぎなことです。
 絵本とは無縁な時代でしたが、それはそれでかけがえのない楽しい幼年時代でした。

「絵本フォーラム」26号・2003.01.10

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