たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第32号・2004.01.10
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幸せな空間のなかで冒険する勇気を持たせたい。

『でんしゃにのって』

写真  現在の子どもたちの行動スケールは、ぼくらの子どもの頃とまるで違い、大きくて広い。
 例えば、ぼくの幼児期、とても自転車に乗ることはできなかった。児童用自転車はなく、子どもの肩近くにサドルのある成人用自転車を攻略するには幼児では太刀打ちできなかった。小学中学年になって初めて挑戦する。サドルを利き手で持ち一方の手でハンドルを掴む。両足は片足をサドル下の三角スペースを通してペダルを捉え一方は手前のペダルに置いて、立ち腰で両のペダルを踏む。練習がずいぶんと必要だった。
 バスや汽車・電車などの乗り物を使って移動する習慣もほとんどなかった。夏や冬の休みに母方の祖父母を訪ねる小旅行がせいいっぱいで、それも親や兄弟がいつも一緒だった。「一人で一度遠くへ行ってみたい」と夢を見ることはあっても、まずそんな機会はなかった。それ以前に、3キロ程度の父方の祖父母宅まで使いに出されるだけで相当な緊張と不安に襲われた。途次、墓場を通らなくてはならず、また、見知らぬ人と擦れ違うのがいやだった。現在は幼児用補助輪付自転車が2、3歳時にもなると用意され、3、4歳ではもう補助輪なしで自在に操れる。でも、何度も痛い目に会う「練習」という冒険はない。家族とマイカーで日常的に出掛け、電車や飛行機に幼児や児童が乗り込むのも珍しくない。結果、現在の子どもは他人のなかでもあまり人見知りをしない。ただ、緊張や不安を覚えながら移動する冒険はなくしている。
 つまり、幼児・児童期に経験してよい冒険をできなくなった現在がある。
 子どもの地域や社会への視界・行動の広がりは歓迎していい、と思う。たくさんの異なる人々がいて社会が成立していること、まだまだ知らない世界がたくさんあることなどを知らず知らずのうちに身体感覚として捉えるのは悪くないと思う。一面ではあるが、「自立」への手がかりが視界・行動の広がりから生まれるのではないかと考えるのである。ところが、 実際は「何時までも大人になれない」若者たち(成人)を大量に生んでいる。子どもたちに消化しきれない情報やモノを猛スピードで大量に与えた結果、彼らはどうやらお腹を壊してしまったようだ。

 うららちゃんは何歳だろうか。4歳か5歳か、ウーン3歳か。田園育ちのとても可愛いい女の子だ『でんしゃにのって』(とよたかずひこ作/アリス館)。このうららちゃんが大胆な冒険を敢行する。ぼくの時代では十分に大胆。たったひとりで電車に乗り、おばあちゃんを訪ねる。お土産と切符をしっかり持って、六駅目の「ここだ」まで…。
 ふんわりとした表情で電車の旅を愉しむうららちゃん。だけれど、停まる駅の案内放送には聞き耳をたてる。田園を走る電車は駅ごとに乗客を迎える。「わにだ」の駅でわにさん親子を、「くまだ」ではくまさん家族、「ぞうだ」駅ではもちろんぞうさん一家。これで座席は満員に。「うさぎだ」で乗ったうさぎさんはぞうさんママの膝にピョンと乗り、「へびだ」駅ではへびのお嬢さんがするすると荷台に這い上る。「ガタゴトー ガタゴトー」のやや間のびした音色が眠りを誘ってみんなはこっくりと…。いつのまにやら「ここだ」駅に到着。うららちゃんはぞうさんに起こして貰って慌てて下車する…。迎えに来てくれたおばあちゃんはおおよろこび。…素朴でのんびりとした、とてもやわらかな物語。
幼児がひとりで電車に乗るというのは、やはり冒険にちがいない。停車駅で乗り込む見知らぬ人々にも当然に不安や緊張を感じるはずだ。「とよたワールド」はそんなこと百も承知で故意にそれらを捨象したのではないか。あるいは捨象したふりをして、読み手聞き手にそれとなく感じさせているのかも知れない。
 動物名に「だ」が加えられた駅名は、親しみやすいリズムを生んだ。音引きを配した「ガタゴトー」のひびきがすごくいい。幸せで安心できる空間を読み手・聞き手の間に築いている。そんなやわらかな世界に浸らせながら、この作品は「一人旅」への勇気や見知らぬ人々との交流の持ち方を隠し味として子どもたちに示唆してくれていると言えないだろうか。
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