たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第39号・2005.03.10
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父親を自慢する子どもたちに応えられますか。

『おとうさん だいすき』

写真  ぼくの青年期であった60年代半ば以降、高度経済成長が実現されるなかで企業戦士となった父親たちは、しだいに家庭のなかより企業にいる時間が長くなる。通勤距離は伸びに伸び長時間残業も当然となると、家庭は、彼らにとって暫しの休息場所にすぎなくなった。で、父の背を見て育つ子どもなどいなくなり、都市部では自分の子どもに「おじちゃんはだれなの?」と問われる父親まで現れる。誇張した笑い話ではすませない現実があったのである。
 この時期に育った子どもたちも、いまや40代30代で父親(母親)として子どもを育てる。 夫婦の分業意識が後退し夫婦共稼ぎが一般的となった現在、社会進出への意識や意欲の高い母親に対して、父親たちの一部にいささかのたよりなさを感じるのはぼくだけだろうか。家庭を顧みない企業戦士も困るが社会参加や労働意欲に精彩を欠く男たちも困りものではないか。子どもに対しても育てるというより擦り寄る父親が増えたようで子どもたちの傲慢さを育てないかと危惧するのである。ぼくの危惧が的外れで、現在の若い父親こそが、しなやかさとしたたかさを備えた生活人であるというなら結構であるけれど…。
 “地震・雷・火事・親父”は、ぼくの父親世代。ぼくにも父親は怖い存在だったし気軽に語れる相手ではなかった。それでも父親は、何とも偉大で、尊敬できる自慢の人物であった。何時も背中を見せている父がいて、彼の一挙手一投足を真似する自分がいたように回顧する。手を上げることもあった父に恨み言ひとつ吐かず、父の凄さやすばらしさだけをぼくらに語りつづけた母の作戦が功を奏したのだろうか。
 父親になったぼくは、とても父のようにはなれなかった。子どもに怖がられる存在でなかったし…。子どもが自慢してくれるような親でもなかったと思うのだ…。だが、親を自慢するのは、幼児・児童に共通する心性ではないか。
 『おとうさん だいすき』(司修・作/文研出版)は、父親自慢で盛り上がる動物村のさわやかばなし。
 日曜日の朝、森の広場に集い遊ぶ動物の子どもたちが父親自慢で競いあうシンプルなおはなしだ。
 自転車乗りの名手の父を自慢するゾウ。これに自動車運転が得意な父を自慢してカバが対抗する。負けじとシマウマは気球に乗る父を持ち出し、ライオンは、「なんだ なんだ そんなの」と船長の父が一番さと割って入る。そこに、「おっほん、ぼくの とうちゃんなんか もっと すごいんだから」と、パイロットの父を自慢してサルが胸を張る。
 おしゃべりの輪の中にひとり黙り込むクマ。みんなに「ねえ、きみの おとうさんは?」「ねえ、きみの…?」「ねえ、…」「ねぇ、」と詰め寄られたクマくん、「えーと、えーと えーと えーと」とだんだんと小声になってことばを詰まらせてしまうのだ。しょんぼりと家路に着くクマ。何にも乗れないお父さんに心中で「おとうさんの ばか。」と叫んでいる。
 分かるよナー。大好きな父なのに思うようにならない事柄にでくわして心の置きどころを見つけられずに恨めしく感じる子どもの気持ち。分かりますよね。
 父になみだ目で訴えるクマ。「くすん、おとうさんはどうしてなにもうんてんできないの」。父は見事な台詞でこれに応えた。「おとうさんは ちきゅうの うんてんしゅさ」と…。 そして、息子を高々と肩車に乗せて「そら、きみも うんてんしゅだよ」と森の広場に向かう。その光景を目にした動物の子どもたちも羨ましさを募らせてそれぞれの家庭に一目散。「おとうさん だいすき!」と肩車をせがむのだ。
 文明の利器である乗り物より大地を踏みしめる肩車のすばらしさに「おとうさん だいすき」の喝采を贈る子どもたちの心性は何を語るのだろうか。
 ペンシル・カラーの柔らかな色調が作者のメッセージに抑制をきかせている。
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